流石氏のハガキ

「歴代長太郎展」開催期間中,入場券の代わりに
三代長太郎流石氏の『辰砂釉長首花生』のハガキを差し上げています。
ぜひ記念にお持ち帰り下さい。

流石氏の蛇蝎釉

「歴代長太郎展」では三代長太郎流石氏の作品を18点展示しています。
多彩な釉薬を操る名工として名高い流石氏,
当館収蔵の18点中でも辰砂釉,鉄釉,べっ甲釉,白蛇蝎釉,黒蛇蝎釉,玉流し釉と
多岐に及んでいます。

今回ご紹介するのは蛇蝎(だかつ)釉です。
亀裂が入った表面は,字のごとくヘビやサソリの肌を想像させます。
これは2種類の伸縮率の異なる釉薬を掛けることで
このような亀裂が現れるのだそうです。

三代作 蛇蝎釉花瓶

三代作 白蛇蝎鶴首

ベーカリーより新作パン

芸術の秋,そして食欲の秋となりました。
美術館1階 のベーカリートワメゾンには新作のパンが続々登場。
本日はその中から3つご紹介します。


◎ 万次郎かぼちゃのメロンパン(手前左)¥160
 熊本県産万次郎かぼちゃを使用した餡を菓子パンで包み,
 かぼちゃのビスケットをかぶせました。

パリdeチョコハーフ(手前右)¥180
 フランスパン生地にチョコを練り込み,バターを織り込んでクロワッサンにしました。

高菜おやきのパン(奥)¥160
 長野県産の高菜がたっぷりと入ったご当地パンです。

お買い上げいただいたパンは隣のカフェトワメゾンでお召し上がりいただけますよ。

三代長太郎 流石

1階焼物展示室の「歴代長太郎展」は
本日より三代長太郎流石氏の作品に展示替えいたしました。

ポスターに掲載している「辰砂釉長首花生」は流石氏の作品です。

初代長太郎の四男として生まれた流石は,
生まれた日に釉薬が理想的に溶けてよく流れたので「流石」と 命名されたのだそうです。

流石氏は大作のロクロ成形を得意とし,安定感のある風格のある作品です。また,多彩な釉薬をもち,陶刻等も得意としました。温厚誠実,謙虚で地道な努力を惜しまない人柄で,人徳のある人物であったそうです。

流石氏の作品展示は12月24日(火)まで。

初代長太郎が出会った太っ腹な明治女性

有山長太郎が谷山に窯を開くことになったのは →本窯跡碑
ある太っ腹の女性と出会ったことがきかっかけでした。

もともと白薩摩の絵付け師であり,古薩摩の研究をしていた長太郎でしたが,
黒薩摩の方がより自由に表現できると思い
理想とする土を県下中探しました。

そうして,ようやく会心の土を発見したのが旧伊作街道の赤土坂でした。
(この赤土坂は県指定無形民俗文化財の虚無僧踊由来にもなっています)

この赤土坂の山を所有していたのが谷山南麓の池田氏でしたが,
最初はなかなか土の採取を承諾してもらえなかったそうです。
しかし,長太郎の人柄と才能を見込んだ池田モト夫人が夫を説得してくれたのでした。

このモト夫人が太っ腹な女性で,
土の採取だけでなく,池田家の屋敷内に住むことを許可し,
池田家の所有地(本窯跡地)1500坪を与えて作陶に協力したのだそうです。
それが明治32年,長太郎28歳の時でした。

明治の女性はかっこいいですね。


「歴代長太郎展」では初代長太郎作の「観音像」を展示しています。
高さ10センチほどの白薩摩です。
この観音像の底裏には「池田」と書かれているところをみると
おそらく初代長太郎がモト夫人の池田家に作ったものと思われます。

初代長太郎作品の展示は10月29日(火)までです。
10月31日(木)からは三代長太郎流石氏の作品を展示いたします。

参考 :木原三郎 昭和54年「陶工長太郎」

佐川敏子展のご案内


佐川敏子「夏みかん」三宅美術館蔵

佐川敏子(1902〜1973)は独立美術協会の女性第一号会員であり
当館で開催中の「抽象的なかたち展」のポスターに掲載している作品の作家
中間冊夫の夫人でもあります。

明治35年東京に生まれ,東京女子大学から1930年協会洋画研究所に学び,
小島善太郎に師事しました。
昭和16年に女性初の独立美術協会会員となり,中間冊夫と公私共によきパートナーでした。

その佐川敏子の作品展が東京南青山の始弘画廊で開催されています。
このような機会はなかなかありませんので
ご都合の合う方は足を運んでみてはいかがでしょうか。
また16日からは国立新美術館で佐川敏子や中間冊夫が所属していた
独立美術協会の独立展が開催されますので,併せてご覧いただくと面白いと思います。

黒千代香について


「歴代長太郎展」では二代長太郎正夫作 「大黒千代香」(オオクロヂョカ)
(直径30cm)を展示しています。

「ヂョカ」とは鹿児島で焼酎用の酒器のことです。
水で割った焼酎をヂョカで一晩寝かせ火にかけると
まろやかになって美味しいのだそうです。

薩摩人にとって黒ヂョカは
 「金ヂョカ茶ヂョカいっぺこっぺさるっもしたやすったいだれもした」
 (金ヂョカ茶ヂョカあちこち歩き回ったのですっかり疲れました)
という言い回しがあったり
 「つぼ屋の土産に茶家三つ貰うた
  一ちや黒茶家(焼酎用)
  一ちや茶茶家(お茶用)
  一ちや家内へ歯黒茶家(鉄漿用)」(*1)(茶家=ちょか)
というヂョカを唄った「笠之原のつぼ屋節」という民謡があるように
大変身近な日常雑器です。

そのためか以前は「ヂョカ」にあてる漢字は特になかったようです。

例えば昭和4年,高松宮殿下が吾平山稜を訪れた際の逸話として
「後藤知事と永田代議士黒ヂョカの説明に当惑」という記事が朝日新聞に載せられています。殿下が黒ヂョカで焼酎をお召しになった際
「チョカはどのような文字を書くかとの御下問に流石の永田氏も困惑してしまひ
薩摩独特の名称でありましてどんな字を當てはめるのでございますが分かりませんと
お答へすると、ハハ…さうかなあ…とチョカが非常にお気に召した。」(*2)
とあります。

また,昭和10年10月,久邇宮殿下来鹿の折,初代長太郎の黒ヂョカをご覧になり,どういう字を書くのか,と知事に質問なさいましたが即答できず後日言上するということになりました。
当時の識者で議論された結果,初代長太郎が当てていた「黒千代香」になったのだそうです。(*3)

つまり現在主流となっている「千代香」の字を最初にあてたのは初代長太郎なのです。

また,このソロバン玉の形をした胴体も桜島と錦江湾(鹿児島湾)に写る桜島の影を見て
初代長太郎が考案したものです。 
それまでのヂョカは楕円の形が一般的でしたが,
熱効率が良い事から現在ではソロバン玉の形が主流となっています。

ソロバン玉型と千代香の名前が100年後には当たり前のように普及しているなんて
初代長太郎も予想していなかったのではないでしょうか。

(*1)(*3) 木原三郎 昭和54年「陶工長太郎」
(*2) 鹿児島縣酒造組合聯合會 昭和15年 薩摩焼酎の回顧」第六章薩摩酒器 黒ヂョカに就いて

第1回薩摩焼伝統工芸士会展

ただ今開催中の「歴代長太郎展」ですが
展示スペースの関係で,期間を3回に分けて展示替えを行います。

指宿長太郎 禮石氏の作品は
平成26年1月4日〜2月17日に展示となりますが
禮石氏の新作は現在山形屋画廊にて開催中の
第1回薩摩焼伝統工芸士会展にてご覧いただけます。

ぜひ足を運んでみて下さい。

長太郎本窯

焼き物展示室で開催中の「歴代長太郎展」では
現在 初代と二代長太郎の作品を展示しております。

初代長太郎の略歴は展示案内でご紹介しておりますとおり
明治32年,縁あって谷山の永田川河口 南清見(現谷山中央2丁目)に開窯しました。

当時, 南清見の目の前は松林が広がる砂浜で
浜では谷山名物の白貝,岩場では一口ダコが採れました。
河口ではうなぎが沢山採れたそうです。

当時の窯は6室連房の登り窯だったそうです。
大正3年の桜島大爆発による地震で崩れ,
昭和26年のルース台風では永田川の氾濫で窯が半分水没するなど
何度か天災に遭ったそうです。

時代とともに埋め立てが進んで海岸線は遠くなり
永田川の河川改修や住宅地の建設で
本窯は平成16年に木屋宇都地区へ移転されました。

現在本窯の跡地にはマンションが建っていますが
入口には長太郎窯の記念碑が残っています。
これは開窯80周年,初代長太郎没後40年の記念として
昭和54年に建立されたようです。


鹿児島の十五夜行事

19日は各地で十五夜行事が行われました。

鹿児島では,一般的に十五夜の夜は綱引きと相撲が行われます。
南さつま市のように独特の風習がある地区もありますが,
一般的には各家庭でお供えをして,地区では綱引きと相撲をします。

当館のある谷山の辻之堂地区はどのような十五夜が行われていたのか
地元の方に伺ってみました。

まずお供えですが,臼の上に農具の箕を置き,そこに季節の果実や月見団子
ススキや萩の花を供えます。
鹿児島独特のお供えは,升に乗せられた里芋の親いもです。
これは子孫繁栄の願いが込められており,
現代でも変わらず供えられています。

行事の方ですが
戦前までは辻之堂地区と隣の原口地区と合同で十五夜行事を行っていたそうです。
辻之堂は昭和30年代まで水田が,原口地区は畑が広がっていましたので
十五夜の時期は辻之堂の稲わらで綱引きの綱を練ったそうです。

十五夜の縄練りは南さつま市で今でも見ることができますが
ここ谷山麓地区では綱練りはもう行われていません。
綱練りはやぐらを組んで,そこに綱を掛けて練っていく作業です。
綱練りと綱引きを行っていた場所は当館の東よりの麓地区との境あたりだったそうです。
綱引きは大人も子供も参加して,唄を歌いながらにぎやかに行われていたそうです。
ちなみに,辻之堂と原口地区の十五夜行事に相撲はなかったそうです。

(綱引きと綱練りが行われていた通り)

面白いのは,通りをひとつ隔てた麓地区(郷士居住地区)では
稲わらが地区内で手に入らないことから
十五夜はお供えをするだけで綱引きや相撲などは行われなかったそう。
違う地区の行事には参加資格がないので
いつも辻之堂と原口の綱引きを見学だけしていたのだそうです。

綱引きを終えた後の綱は,50センチほどに裁断し,
馬や牛のエサ,燃料にしたそうです。

ちなみに坊津の十五夜綱引きは有名ですが
漁村なので稲わらではなく茅で綱を練っています。
終わると50センチほどに裁断し,翌日入札が行われ
落札された茅の綱は畑の堆肥になるのだそうです。

戦後は小学校のあいご会が主催となって十五夜行事を行うことになったので
麓地区でも公民館で綱を練って,それを小学校まで引きずって辻練りをして
綱引きと相撲を取っていたそうです。

以下は谷山観光協会が発行している「谷山の歴史と文化財」より
谷山の十五夜綱引唄(作詞 黒木弥千代氏)をご紹介します。

綱はサーヨン サーヨン サーヨンヨイ
今年は十五夜ん綱は三十三尋半(ぴろとかけ)
揃ろた揃ろたよ 引き子が揃ろた
稚児は鉢巻き おごじょはたすき
月は出た出た東の空に
十五夜お月様今出やった
月の光にチンチロリンがおらぶ
まぎれまぎれよ一本松まぎれ
蛭子塞神(えびすさいのかみ)さんにお願をかけて
今夜の綱引きは柳右衛門さんに見せろ
臼に箕を乗せ お餅をそえて
魚もとれもした 港は祭り
月の七つ島 流しの夜船
飲めや歌えや お月さんも踊れ