「開窯120年長太郎焼展」も残すところ4日となりました。
本日、9月19日付の朝日新聞「この一品」では、
三代長太郎流石の梅花皮茶碗を紹介しています。
展示室では、高台の梅花皮釉も見えるよう展示していますので
ぜひ実物をご覧になってみてください。
本窯長太郎焼窯元の見学をしました
「この一品」より②
「この一品」より①
KYTかごピタでご紹介いただきました
本日午後4時半から,KYTの「かごピタ」にて,「開窯120年長太郎焼」展の様子を生中継でご紹介いただきました。
このあと午後6時半ごろからも2度目の生中継がありますので,お時間のある方は,ぜひ御覧ください。
工事のお知らせ
長太郎焼 5
昭和27年、二代長太郎正夫は揖宿郡より指宿陶磁器研究所の主任に任命され、
現在の指宿長太郎焼窯元の地に研究所を開き、指宿の原料で焼物の研究を始めます。
昭和32年に弟の流石(さすが)に後任を譲り本窯へ戻り、
昭和35年流石によって指宿陶磁器研究所は指宿長太郎焼窯元と改名。
流石は三代長太郎を襲名します。
現在、流石の四男である有山禮石(れいせき)、
禮石の長男勝英(かつひで)、次男史洋(ふみひろ)に引き継がれています。
昭和48年に正夫は本窯を長佑(四代長太郎)に譲ると、
明宏(正夫長男)と如意山清泉寺長太郎焼窯元を開窯します。
現在は有山明宏(めいこう)と長男の壽彦(としひこ)が清泉寺窯の火を守っています。
ちなみに、大正15年、初代長太郎が地元の要請で霧島神宮のそばに長太郎焼分窯の建設を着手した記録が残っていますが(*1)、開窯までこぎつけたのかどうかは不明です。
霧島神宮には「霧島 長太郎」と刻印のある猿田彦面が奉納されていますが、それが霧島で焼かれたものか、谷山の本窯で焼かれたものかは分かっていません。
また、昭和14年頃、種子島の能野にも分窯建設のため調査に赴き、築窯に適した場所に目星をつけ、いざ建設に取り掛かろうという時に急逝し、その計画はそのまま頓挫してしまったのでした。(*2)
(*1)木藤長(1926)「地理教材研究第九輯」『長太郎焼』東京目黒書店.
(*2)西之表市立図書館(1966)「郷土史資料集(2)」『郷土能野焼』.
長太郎焼 4
昭和15年10月、初代有山長太郎が亡くなり、長太郎窯は長男の正夫が二代有山長太郎として継ぐこととなりました。
初代が谷山に窯を開いた明治32年に生まれた正夫は、長太郎窯とともに育ち、
小学生時代は登校前から窯の手伝いをさせられていたそうです。
稼業手伝いのため中学校への進学は叶いませんでしたが、教養を身に付けるために書道の稽古に通うことだけは許されていたそうです。
そのせいでしょうか、二代正夫は焼物と同じくらい書画作品も多く残しています。
(書画では「壺仙(こせん)」という雅号を使用していました。)
外交的な性格だった正夫は高見馬場に開いた長太郎焼の店を任されるようになり、また人望も厚く地元の消防団長、谷山史談会会長、谷山町議会議員(1期)も務めています。
しかしながら、時代は日中戦争、第二次世界大戦など厳しい社会情勢を迎え、窯の存続には相当な苦労をしたようです。軍需品や日用品、米軍のお土産品などを作ってなんとかしのぎ、
正夫の人柄と外交手腕で長太郎焼の技術と名前を今に繋いでくれたのでした。
ここ地元谷山では、今でも「髭の長太郎さん」として親しみを込めて呼ばれています。
ワークショップ作品 できあがりました
7月26日、27日に開催した、ロクロ体験ワークショップの作品が完成しました。
同じ工程で製作された茶碗ですが、それぞれ個性あふれる作品に仕上がっています。
作品は美術館受付でお渡ししていますので、参加された方はお手数ですが、ご都合の良いときにご来館ください。
長太郎焼 3
大正12年、東京白木屋百貨店での展覧会が好評をえたことで、鹿児島の山形屋でも長太郎焼展覧会を開催するにいたりました。鹿児島でも新薩摩焼として長太郎焼は好評を得、長太郎窯はようやく軌道に乗ることとなります。
大正12年の12月には東宮殿下御成婚のための献上品を鹿児島県から受注。
以後、天皇陛下、各宮家、アメリカ大統領などへの献上品を次々と受注する栄誉にあずかります。
とはいえ、昭和に入ると不穏な社会情勢を迎え、多い時には20人を超す職人や奉公人を抱えていた長太郎窯は、「当時は全員に食べさせ、着せることに必死だった。」と二代長太郎正夫(長太郎長男)の妻オグリは語っています。
さて、初代長太郎の身近な作品といえば、現在の鹿児島市庁舎本館(昭和12年竣工/国指定登録有形文化財)の正面入口にあるレリーフがあります。当時の岩元禧市長(在任期間:昭和8~11年)の依頼で製作されました。岩元氏と長太郎は最期まで友人付き合いが続き、昭和15年の長太郎の葬儀では岩元氏が友人代表をつとめています。