身近にある長太郎焼⑤

「開窯120年長太郎焼展」は終了しましたが、
長太郎焼の情報はこれからも随時ご紹介していきたいと思います。

本日ご紹介するのは、まずこちら。
谷山中央1丁目にある谷山サザンホールの前の歩道です。

国道225号線から300mほど続く歩道ですが、
よく見ると一部違った色のタイルでデザインが施されています。

実はこの赤褐色のタイルは、長太郎焼なのです。

如意山清泉寺長太郎焼窯元の有山明宏氏によって焼かれました。
雨の日でも滑らず、人に踏まれても割れないタイルを焼くのに苦心されたそうです。
晴れている日と雨の日では、長太郎焼のタイルの色が変わりますので、
ぜひ歩いて見つけてみてくださいね。

そして、もう一つはこちら。

国道225号線の谷山港区入口交差点の先にある、松林寺公園の横を流れる和田川に掛かっている潮見橋です。

以前は明治23年に架けられた三連アーチの石橋でしたが、老朽化にともない平成20年に現在の橋に架けかえられました。
この橋の陶銘板を製作したのも如意山清泉寺長太郎焼窯元の有山明宏氏です。


「この一品」より③

「開窯120年長太郎焼展」も残すところ4日となりました。
本日、9月19日付の朝日新聞「この一品」では、
三代長太郎流石の梅花皮茶碗を紹介しています。

展示室では、高台の梅花皮釉も見えるよう展示していますので
ぜひ実物をご覧になってみてください。


掲載承諾番号「19-3933」(朝日新聞に無断の転写は禁じられています)

本窯長太郎焼窯元の見学をしました

谷山の歴史を勉強しているグループの皆様と、本窯長太郎焼窯元の見学へ行ってまいりました。
四代長太郎長佑さんに、作品制作中の工房や

窯場をご案内いただいた後、

長佑さんの作品に囲まれながら、初代長太郎が亡くなる昭和15年(長佑氏5才)まで一緒の布団で寝ていたという幼少時の思い出から、長太郎焼の陶工として窯を継ぐ決意をするに至るまでの話、そしてこれからのことなど、貴重なお話を皆さんの質問に気さくに答えながらお話くださいました。

「開窯120年長太郎焼展」は23日までです。

「この一品」より②

9月12日付朝日新聞「この一品」に、ただ今展示中の「二宮金次郎像」を紹介させていただきました。高さ1m弱で、4~5歳児ほどの大きさがあります。

「開窯120年長太郎焼展」は9月23日(月・祝)までです。

掲載承諾番号「19-3933」(朝日新聞に無断の転写は禁じられています)

「この一品」より①

朝日新聞(9月5日付)の「この一品」に初代長太郎と長太郎の絵付けの師匠である
郡山静遊庵と共作の花器「唐子図龍文貼付花器」を紹介させていただきました。

本作品は、当館1階展示室の最初に展示しています。

掲載承諾番号「19-3933」(朝日新聞に無断の転写は禁じられています)

工事のお知らせ

本日より美術館屋上のメンテナンス作業が始まりました。
館の横には足場が組まれており、今月いっぱいご迷惑をおかけいたしますが、ご了承のほどよろしくお願いいたします。
なお、美術館もカフェも通常通り営業しております。

長太郎焼 5

昭和27年、二代長太郎正夫は揖宿郡より指宿陶磁器研究所の主任に任命され、
現在の指宿長太郎焼窯元の地に研究所を開き、指宿の原料で焼物の研究を始めます。

昭和32年に弟の流石(さすが)に後任を譲り本窯へ戻り、
昭和35年流石によって指宿陶磁器研究所は指宿長太郎焼窯元と改名。
流石は三代長太郎を襲名します。
現在、流石の四男である有山禮石(れいせき)、
禮石の長男勝英(かつひで)、次男史洋(ふみひろ)に引き継がれています。

昭和48年に正夫は本窯を長佑(四代長太郎)に譲ると、
明宏(正夫長男)と如意山清泉寺長太郎焼窯元を開窯します。
現在は有山明宏(めいこう)と長男の壽彦(としひこ)が清泉寺窯の火を守っています。

ちなみに、大正15年、初代長太郎が地元の要請で霧島神宮のそばに長太郎焼分窯の建設を着手した記録が残っていますが(*1)、開窯までこぎつけたのかどうかは不明です。
霧島神宮には「霧島 長太郎」と刻印のある猿田彦面が奉納されていますが、それが霧島で焼かれたものか、谷山の本窯で焼かれたものかは分かっていません。
また、昭和14年頃、種子島の能野にも分窯建設のため調査に赴き、築窯に適した場所に目星をつけ、いざ建設に取り掛かろうという時に急逝し、その計画はそのまま頓挫してしまったのでした。(*2)

(*1)木藤長(1926)「地理教材研究第九輯」『長太郎焼』東京目黒書店.
(*2)西之表市立図書館(1966)「郷土史資料集(2)」『郷土能野焼』.

長太郎焼 4

昭和15年10月、初代有山長太郎が亡くなり、長太郎窯は長男の正夫が二代有山長太郎として継ぐこととなりました。
初代が谷山に窯を開いた明治32年に生まれた正夫は、長太郎窯とともに育ち、
小学生時代は登校前から窯の手伝いをさせられていたそうです。
稼業手伝いのため中学校への進学は叶いませんでしたが、教養を身に付けるために書道の稽古に通うことだけは許されていたそうです。
そのせいでしょうか、二代正夫は焼物と同じくらい書画作品も多く残しています。
(書画では「壺仙(こせん)」という雅号を使用していました。)

外交的な性格だった正夫は高見馬場に開いた長太郎焼の店を任されるようになり、また人望も厚く地元の消防団長、谷山史談会会長、谷山町議会議員(1期)も務めています。
しかしながら、時代は日中戦争、第二次世界大戦など厳しい社会情勢を迎え、窯の存続には相当な苦労をしたようです。軍需品や日用品、米軍のお土産品などを作ってなんとかしのぎ、
正夫の人柄と外交手腕で長太郎焼の技術と名前を今に繋いでくれたのでした。
ここ地元谷山では、今でも「髭の長太郎さん」として親しみを込めて呼ばれています。

ワークショップ作品 できあがりました

7月26日、27日に開催した、ロクロ体験ワークショップの作品が完成しました。
同じ工程で製作された茶碗ですが、それぞれ個性あふれる作品に仕上がっています。
作品は美術館受付でお渡ししていますので、参加された方はお手数ですが、ご都合の良いときにご来館ください。