四代長太郎のレリーフ


「ゆうゆうのさと」

この作品は1995年(平成7年)に
四代長太郎 長佑氏が母校である鹿児島市立谷山小学校に寄贈した陶板のレリーフです。
体育館のエントランスに飾られていて、
高さは1mほど、長さが5mほどの大きな作品です。
全体的に長太郎窯特有の鉄釉が施され、
桜島の山頂部分を素焼きの状態のままにして変化をつけてあります。

気軽に誰でも見る事が出来る場所ですので
ぜひ立ち寄ってご覧になってみて下さい。

清泉寺長太郎窯

ただ今開催中の「歴代長太郎展」
昨日から現代の長太郎
四代長太郎長佑氏,清泉寺長太郎明宏氏,指宿長太郎禮石氏の作品を展示しています。

下の写真は清泉寺という名前の通り,今もコンコンと清水が湧き出ている清泉寺跡の泉です。
この清泉寺跡にあるのが二代長太郎正夫氏が開窯した清泉寺長太郎窯です。
現在は明宏氏がその火を受け継いでいます。

谷山の「七つ島鹿児島ふるさと物産館」には清泉寺長太郎の焼き物を販売している
「壺中庵」があります。

そして…
なんと,本日1月5日まで50%off なのだそうです!
店内でコーヒーも頂けるそうなので(200円お菓子付き)
この機会にぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
【壺中庵】営業時間 10:00〜18:00
壺中庵は2018年3月をもって長太郎焼清泉寺窯元へ移転しました

桜島爆発記念碑

来年1月12日で大正の大噴火から100年を迎える桜島。
その節目に合わせて桜島の絵画を集めた「桜島のある風景展」を開催しています。

本日ご紹介するのは絵画ではなく
当館前の辻之堂後公民館にある「桜島爆発記念碑」です。

この記念碑は大噴火の翌年,大正4年の正月に原口青年会によって建立されています。
ここ谷山では大噴火の後に発生した地震により民家の石壁が崩れ
多くの死傷者が出たのだそうです。

現在 記念碑の背面に記されている文字は苔と剥落で解読できませんが,
「谷山の碑文集」(*)によると発起人や青年会長,相談役,評議員の名前が
記されているだけで,被災状況などは碑文から確認できないようです。

ちなみに,この記念碑の隣には
田ノ神さぁ(左)と馬頭神(中)と灯籠(右)がありますよ。

(*)木原三郎 昭和55年「谷山の碑文集」

初代長太郎が出会った太っ腹な明治女性

有山長太郎が谷山に窯を開くことになったのは →本窯跡碑
ある太っ腹の女性と出会ったことがきかっかけでした。

もともと白薩摩の絵付け師であり,古薩摩の研究をしていた長太郎でしたが,
黒薩摩の方がより自由に表現できると思い
理想とする土を県下中探しました。

そうして,ようやく会心の土を発見したのが旧伊作街道の赤土坂でした。
(この赤土坂は県指定無形民俗文化財の虚無僧踊由来にもなっています)

この赤土坂の山を所有していたのが谷山南麓の池田氏でしたが,
最初はなかなか土の採取を承諾してもらえなかったそうです。
しかし,長太郎の人柄と才能を見込んだ池田モト夫人が夫を説得してくれたのでした。

このモト夫人が太っ腹な女性で,
土の採取だけでなく,池田家の屋敷内に住むことを許可し,
池田家の所有地(本窯跡地)1500坪を与えて作陶に協力したのだそうです。
それが明治32年,長太郎28歳の時でした。

明治の女性はかっこいいですね。


「歴代長太郎展」では初代長太郎作の「観音像」を展示しています。
高さ10センチほどの白薩摩です。
この観音像の底裏には「池田」と書かれているところをみると
おそらく初代長太郎がモト夫人の池田家に作ったものと思われます。

初代長太郎作品の展示は10月29日(火)までです。
10月31日(木)からは三代長太郎流石氏の作品を展示いたします。

参考 :木原三郎 昭和54年「陶工長太郎」

黒千代香について


「歴代長太郎展」では二代長太郎正夫作 「大黒千代香」(オオクロヂョカ)
(直径30cm)を展示しています。

「ヂョカ」とは鹿児島で焼酎用の酒器のことです。
水で割った焼酎をヂョカで一晩寝かせ火にかけると
まろやかになって美味しいのだそうです。

薩摩人にとって黒ヂョカは
 「金ヂョカ茶ヂョカいっぺこっぺさるっもしたやすったいだれもした」
 (金ヂョカ茶ヂョカあちこち歩き回ったのですっかり疲れました)
という言い回しがあったり
 「つぼ屋の土産に茶家三つ貰うた
  一ちや黒茶家(焼酎用)
  一ちや茶茶家(お茶用)
  一ちや家内へ歯黒茶家(鉄漿用)」(*1)(茶家=ちょか)
というヂョカを唄った「笠之原のつぼ屋節」という民謡があるように
大変身近な日常雑器です。

そのためか以前は「ヂョカ」にあてる漢字は特になかったようです。

例えば昭和4年,高松宮殿下が吾平山稜を訪れた際の逸話として
「後藤知事と永田代議士黒ヂョカの説明に当惑」という記事が朝日新聞に載せられています。殿下が黒ヂョカで焼酎をお召しになった際
「チョカはどのような文字を書くかとの御下問に流石の永田氏も困惑してしまひ
薩摩独特の名称でありましてどんな字を當てはめるのでございますが分かりませんと
お答へすると、ハハ…さうかなあ…とチョカが非常にお気に召した。」(*2)
とあります。

また,昭和10年10月,久邇宮殿下来鹿の折,初代長太郎の黒ヂョカをご覧になり,どういう字を書くのか,と知事に質問なさいましたが即答できず後日言上するということになりました。
当時の識者で議論された結果,初代長太郎が当てていた「黒千代香」になったのだそうです。(*3)

つまり現在主流となっている「千代香」の字を最初にあてたのは初代長太郎なのです。

また,このソロバン玉の形をした胴体も桜島と錦江湾(鹿児島湾)に写る桜島の影を見て
初代長太郎が考案したものです。 
それまでのヂョカは楕円の形が一般的でしたが,
熱効率が良い事から現在ではソロバン玉の形が主流となっています。

ソロバン玉型と千代香の名前が100年後には当たり前のように普及しているなんて
初代長太郎も予想していなかったのではないでしょうか。

(*1)(*3) 木原三郎 昭和54年「陶工長太郎」
(*2) 鹿児島縣酒造組合聯合會 昭和15年 薩摩焼酎の回顧」第六章薩摩酒器 黒ヂョカに就いて

長太郎本窯

焼き物展示室で開催中の「歴代長太郎展」では
現在 初代と二代長太郎の作品を展示しております。

初代長太郎の略歴は展示案内でご紹介しておりますとおり
明治32年,縁あって谷山の永田川河口 南清見(現谷山中央2丁目)に開窯しました。

当時, 南清見の目の前は松林が広がる砂浜で
浜では谷山名物の白貝,岩場では一口ダコが採れました。
河口ではうなぎが沢山採れたそうです。

当時の窯は6室連房の登り窯だったそうです。
大正3年の桜島大爆発による地震で崩れ,
昭和26年のルース台風では永田川の氾濫で窯が半分水没するなど
何度か天災に遭ったそうです。

時代とともに埋め立てが進んで海岸線は遠くなり
永田川の河川改修や住宅地の建設で
本窯は平成16年に木屋宇都地区へ移転されました。

現在本窯の跡地にはマンションが建っていますが
入口には長太郎窯の記念碑が残っています。
これは開窯80周年,初代長太郎没後40年の記念として
昭和54年に建立されたようです。


鹿児島の十五夜行事

19日は各地で十五夜行事が行われました。

鹿児島では,一般的に十五夜の夜は綱引きと相撲が行われます。
南さつま市のように独特の風習がある地区もありますが,
一般的には各家庭でお供えをして,地区では綱引きと相撲をします。

当館のある谷山の辻之堂地区はどのような十五夜が行われていたのか
地元の方に伺ってみました。

まずお供えですが,臼の上に農具の箕を置き,そこに季節の果実や月見団子
ススキや萩の花を供えます。
鹿児島独特のお供えは,升に乗せられた里芋の親いもです。
これは子孫繁栄の願いが込められており,
現代でも変わらず供えられています。

行事の方ですが
戦前までは辻之堂地区と隣の原口地区と合同で十五夜行事を行っていたそうです。
辻之堂は昭和30年代まで水田が,原口地区は畑が広がっていましたので
十五夜の時期は辻之堂の稲わらで綱引きの綱を練ったそうです。

十五夜の縄練りは南さつま市で今でも見ることができますが
ここ谷山麓地区では綱練りはもう行われていません。
綱練りはやぐらを組んで,そこに綱を掛けて練っていく作業です。
綱練りと綱引きを行っていた場所は当館の東よりの麓地区との境あたりだったそうです。
綱引きは大人も子供も参加して,唄を歌いながらにぎやかに行われていたそうです。
ちなみに,辻之堂と原口地区の十五夜行事に相撲はなかったそうです。

(綱引きと綱練りが行われていた通り)

面白いのは,通りをひとつ隔てた麓地区(郷士居住地区)では
稲わらが地区内で手に入らないことから
十五夜はお供えをするだけで綱引きや相撲などは行われなかったそう。
違う地区の行事には参加資格がないので
いつも辻之堂と原口の綱引きを見学だけしていたのだそうです。

綱引きを終えた後の綱は,50センチほどに裁断し,
馬や牛のエサ,燃料にしたそうです。

ちなみに坊津の十五夜綱引きは有名ですが
漁村なので稲わらではなく茅で綱を練っています。
終わると50センチほどに裁断し,翌日入札が行われ
落札された茅の綱は畑の堆肥になるのだそうです。

戦後は小学校のあいご会が主催となって十五夜行事を行うことになったので
麓地区でも公民館で綱を練って,それを小学校まで引きずって辻練りをして
綱引きと相撲を取っていたそうです。

以下は谷山観光協会が発行している「谷山の歴史と文化財」より
谷山の十五夜綱引唄(作詞 黒木弥千代氏)をご紹介します。

綱はサーヨン サーヨン サーヨンヨイ
今年は十五夜ん綱は三十三尋半(ぴろとかけ)
揃ろた揃ろたよ 引き子が揃ろた
稚児は鉢巻き おごじょはたすき
月は出た出た東の空に
十五夜お月様今出やった
月の光にチンチロリンがおらぶ
まぎれまぎれよ一本松まぎれ
蛭子塞神(えびすさいのかみ)さんにお願をかけて
今夜の綱引きは柳右衛門さんに見せろ
臼に箕を乗せ お餅をそえて
魚もとれもした 港は祭り
月の七つ島 流しの夜船
飲めや歌えや お月さんも踊れ

正五九の引っ越し

当館近くのJR沿線では、区画整理に伴う引っ越しでみなさん大忙しです。
特に4月は翌月が正五九(しょうごく)にあたるので
月内に引っ越しできるよう頑張って準備されています。

正五九とは正月・五月・九月のことで
鹿児島では引っ越しをしてはいけない月とされています。
理由は諸説ありますが、旧暦で考えると5月、9月は田植えと刈入れの農繁期。
地域の人手を借りる事は、正月と農繁期は控えましょう、ということではないでしょうか。
(地域によっては結婚式も控えるところもあるので)

しかし、農業のサイクルとは関係のない生活を送っている現代では
なかなかそういう訳にもいきません。
そこで、どうしても正五九に引っ越しをしなければならない時は
前月に世帯主が新居に行って、履いて行った靴を置いてくると
その時点で引っ越ししたことになるようです。

鹿児島は今でも正五九月には引っ越しは減るそうですので、
気にしなければ仏滅の結婚式のように、案外狙い目なのかもしれませんね。

石敢当

写真の石塔は「石敢当」(せっかんとう)といって
丁字路の突き当たりに立てられているものです。

邪気は障害物を飛び越えて真っすぐ進んで来ると信じられていて
塀を超えて家に飛び込んで来ないよう
邪気を左右に散らす‘魔よけ’として立てられるものです。

これは中国から来た風習のようで、沖縄と鹿児島に多く見られます。
本当に僅かではありますが全国で確認されていて
「石敢当」(1999年 小玉正任 著)によると
函館市高丘町のものが北限だそうです。

ここ谷山の麓辻之堂地区では
今でも丁字路の突き当たりに新築するお宅は石敢当を新設します。
形は台座がある自立式のものと塀にはめ込むタイプがあります。

区画整理で年々道路が新しくなっているので
残念ながら古い石敢当はどんどん姿を消してしまっています。

「石敢當の現況」(昭和58年 松田誠 著)によると
谷山小学校正門から当館の方(北)へ向って200mほど進んだ右手に
存在が確認されているのですが、現在その場所は駐車場となっており
すでに石敢当は撤去されています。

ちなみに、JR谷山駅近くの石敢当(画像の下段左)には「石散當」と刻まれています。

永田橋谷山駅

ここは永田橋から谷山駅方面を望んだ景色です。

この辺りは谷山街道(指宿街道)と伊作街道の合流地点という場所柄
昭和30年代までは馬屋、荷馬車屋、馬蹄屋、鍛冶屋の並ぶ通りでした。

永田川で馬を洗ったり、馬蹄を交換したり、
荷馬車で山から木材や野菜を運んで来て
谷山駅で列車に積み込んだりと、ずい分と賑わっていたようです。

当時の様子が偲ばれる馬小屋が今も残っています。

これは永田橋から川沿いにJR谷山駅へ向う途中にある春日神社。
2本の巨木は樹齢150年のクスノキと樹齢100年のタブノキで
市の景観重要樹木に指定されています。

この辺りもJR指宿枕崎線の谷山慈眼寺の高架工事に伴い
日々景観が変わっているので、そろそろ見納めかもしれません。

ちなみに永田橋は新しくなる前は太鼓橋だったので
女性が引く荷車はなかなか登れなかったそう。
そこで、近所の子供たちは荷馬車を押す手伝いをして
野菜や果物を駄賃として貰っていたのだそうです。
たくましい!