長太郎本窯

焼き物展示室で開催中の「歴代長太郎展」では
現在 初代と二代長太郎の作品を展示しております。

初代長太郎の略歴は展示案内でご紹介しておりますとおり
明治32年,縁あって谷山の永田川河口 南清見(現谷山中央2丁目)に開窯しました。

当時, 南清見の目の前は松林が広がる砂浜で
浜では谷山名物の白貝,岩場では一口ダコが採れました。
河口ではうなぎが沢山採れたそうです。

当時の窯は6室連房の登り窯だったそうです。
大正3年の桜島大爆発による地震で崩れ,
昭和26年のルース台風では永田川の氾濫で窯が半分水没するなど
何度か天災に遭ったそうです。

時代とともに埋め立てが進んで海岸線は遠くなり
永田川の河川改修や住宅地の建設で
本窯は平成16年に木屋宇都地区へ移転されました。

現在本窯の跡地にはマンションが建っていますが
入口には長太郎窯の記念碑が残っています。
これは開窯80周年,初代長太郎没後40年の記念として
昭和54年に建立されたようです。


鹿児島の十五夜行事

19日は各地で十五夜行事が行われました。

鹿児島では,一般的に十五夜の夜は綱引きと相撲が行われます。
南さつま市のように独特の風習がある地区もありますが,
一般的には各家庭でお供えをして,地区では綱引きと相撲をします。

当館のある谷山の辻之堂地区はどのような十五夜が行われていたのか
地元の方に伺ってみました。

まずお供えですが,臼の上に農具の箕を置き,そこに季節の果実や月見団子
ススキや萩の花を供えます。
鹿児島独特のお供えは,升に乗せられた里芋の親いもです。
これは子孫繁栄の願いが込められており,
現代でも変わらず供えられています。

行事の方ですが
戦前までは辻之堂地区と隣の原口地区と合同で十五夜行事を行っていたそうです。
辻之堂は昭和30年代まで水田が,原口地区は畑が広がっていましたので
十五夜の時期は辻之堂の稲わらで綱引きの綱を練ったそうです。

十五夜の縄練りは南さつま市で今でも見ることができますが
ここ谷山麓地区では綱練りはもう行われていません。
綱練りはやぐらを組んで,そこに綱を掛けて練っていく作業です。
綱練りと綱引きを行っていた場所は当館の東よりの麓地区との境あたりだったそうです。
綱引きは大人も子供も参加して,唄を歌いながらにぎやかに行われていたそうです。
ちなみに,辻之堂と原口地区の十五夜行事に相撲はなかったそうです。

(綱引きと綱練りが行われていた通り)

面白いのは,通りをひとつ隔てた麓地区(郷士居住地区)では
稲わらが地区内で手に入らないことから
十五夜はお供えをするだけで綱引きや相撲などは行われなかったそう。
違う地区の行事には参加資格がないので
いつも辻之堂と原口の綱引きを見学だけしていたのだそうです。

綱引きを終えた後の綱は,50センチほどに裁断し,
馬や牛のエサ,燃料にしたそうです。

ちなみに坊津の十五夜綱引きは有名ですが
漁村なので稲わらではなく茅で綱を練っています。
終わると50センチほどに裁断し,翌日入札が行われ
落札された茅の綱は畑の堆肥になるのだそうです。

戦後は小学校のあいご会が主催となって十五夜行事を行うことになったので
麓地区でも公民館で綱を練って,それを小学校まで引きずって辻練りをして
綱引きと相撲を取っていたそうです。

以下は谷山観光協会が発行している「谷山の歴史と文化財」より
谷山の十五夜綱引唄(作詞 黒木弥千代氏)をご紹介します。

綱はサーヨン サーヨン サーヨンヨイ
今年は十五夜ん綱は三十三尋半(ぴろとかけ)
揃ろた揃ろたよ 引き子が揃ろた
稚児は鉢巻き おごじょはたすき
月は出た出た東の空に
十五夜お月様今出やった
月の光にチンチロリンがおらぶ
まぎれまぎれよ一本松まぎれ
蛭子塞神(えびすさいのかみ)さんにお願をかけて
今夜の綱引きは柳右衛門さんに見せろ
臼に箕を乗せ お餅をそえて
魚もとれもした 港は祭り
月の七つ島 流しの夜船
飲めや歌えや お月さんも踊れ

正五九の引っ越し

当館近くのJR沿線では、区画整理に伴う引っ越しでみなさん大忙しです。
特に4月は翌月が正五九(しょうごく)にあたるので
月内に引っ越しできるよう頑張って準備されています。

正五九とは正月・五月・九月のことで
鹿児島では引っ越しをしてはいけない月とされています。
理由は諸説ありますが、旧暦で考えると5月、9月は田植えと刈入れの農繁期。
地域の人手を借りる事は、正月と農繁期は控えましょう、ということではないでしょうか。
(地域によっては結婚式も控えるところもあるので)

しかし、農業のサイクルとは関係のない生活を送っている現代では
なかなかそういう訳にもいきません。
そこで、どうしても正五九に引っ越しをしなければならない時は
前月に世帯主が新居に行って、履いて行った靴を置いてくると
その時点で引っ越ししたことになるようです。

鹿児島は今でも正五九月には引っ越しは減るそうですので、
気にしなければ仏滅の結婚式のように、案外狙い目なのかもしれませんね。

石敢当

写真の石塔は「石敢当」(せっかんとう)といって
丁字路の突き当たりに立てられているものです。

邪気は障害物を飛び越えて真っすぐ進んで来ると信じられていて
塀を超えて家に飛び込んで来ないよう
邪気を左右に散らす‘魔よけ’として立てられるものです。

これは中国から来た風習のようで、沖縄と鹿児島に多く見られます。
本当に僅かではありますが全国で確認されていて
「石敢当」(1999年 小玉正任 著)によると
函館市高丘町のものが北限だそうです。

ここ谷山の麓辻之堂地区では
今でも丁字路の突き当たりに新築するお宅は石敢当を新設します。
形は台座がある自立式のものと塀にはめ込むタイプがあります。

区画整理で年々道路が新しくなっているので
残念ながら古い石敢当はどんどん姿を消してしまっています。

「石敢當の現況」(昭和58年 松田誠 著)によると
谷山小学校正門から当館の方(北)へ向って200mほど進んだ右手に
存在が確認されているのですが、現在その場所は駐車場となっており
すでに石敢当は撤去されています。

ちなみに、JR谷山駅近くの石敢当(画像の下段左)には「石散當」と刻まれています。

永田橋谷山駅

ここは永田橋から谷山駅方面を望んだ景色です。

この辺りは谷山街道(指宿街道)と伊作街道の合流地点という場所柄
昭和30年代までは馬屋、荷馬車屋、馬蹄屋、鍛冶屋の並ぶ通りでした。

永田川で馬を洗ったり、馬蹄を交換したり、
荷馬車で山から木材や野菜を運んで来て
谷山駅で列車に積み込んだりと、ずい分と賑わっていたようです。

当時の様子が偲ばれる馬小屋が今も残っています。

これは永田橋から川沿いにJR谷山駅へ向う途中にある春日神社。
2本の巨木は樹齢150年のクスノキと樹齢100年のタブノキで
市の景観重要樹木に指定されています。

この辺りもJR指宿枕崎線の谷山慈眼寺の高架工事に伴い
日々景観が変わっているので、そろそろ見納めかもしれません。

ちなみに永田橋は新しくなる前は太鼓橋だったので
女性が引く荷車はなかなか登れなかったそう。
そこで、近所の子供たちは荷馬車を押す手伝いをして
野菜や果物を駄賃として貰っていたのだそうです。
たくましい!

遠見遮断

谷山小学校と谷山支所の慈眼寺方面側(国道と反対側)にある交差点は
東西と南北の二重のクランクになっていて非常に通り辛く
離合する車の運転手は皆ピリピリです。

実はこの道、「遠見遮断」といって
わざとクランクにして遠くが見通せないよう作られた道なんです。

その昔、谷山小学校は谷山地頭館(地頭仮屋)で
谷山支所の前は仮屋馬場でした。
谷山の心臓部だったため、簡単に見通せたり
馬で一直線に攻め入ってこられないように工夫された道だったんですね。

そういう事実を知ると、ここが通り辛くて当たり前。
むしろ通り辛さを楽しみたくなります。

しかし…
この通りは小学生の通学に危険が伴うため、
近々拡張され、遠見遮断の跡は姿を消します。

車社会となった現代、子供たちの危険を考えると仕方がないことです。
今のうちに通り辛さを楽しんでみて下さい。

辻之堂の水神様

ただ今絵画展示室では「水辺のアルバム」と題し
海や川など水辺の風景にちなんだ作品を展示していますので、
当館の水にちなんだ風景をご紹介します。

写真の石祀は当館駐車場の奥に鎮座している水神様です。
もとは道路側にあったのですが、駐車場整備にあたり今の場所に移されました。

この辺りは水が豊富な地域らしく、昭和30年代まで水田が広がっていました。
当館向いの建物の脇には堀(水路)が流れていたので、
この水神様はその堀(水路)にあったものかもしれません。

ちなみに、ここから50m程先には、笹貫の刀匠波之平の分家があり
堀に囲まれていたので「堀の波之平」と呼ばれています。
今もバス停留所「新永田橋」の側に堀の跡が少しですが残っています。
また、この堀沿いにお住まいだった名残りで
堀脇さんというお名前が数件残っています。

刀匠が移り住むのですから、水も上質だったようです。
今でも井戸が残っているお宅が沢山ありますが、
指宿枕崎線の線路辺りから水脈が違うらしく
線路から永田川方面(堀の波之平側)は非常に上質の水が出るのですが
残念ながら線路からこちら側は赤水なのだそうです。

また、この辺りでは水が豊かな沢などに生息しているエゴノキが
一般のご家庭の庭木として元気に花を咲かせています。
これも水脈の豊かな地域だからこそ見られる風景なのでしょうね。

中山の虚無僧踊り

【開催地】鹿児島市中山町 白山神社
【開催日】平成24年7月29日
【指 定】県指定無形民俗文化財「鹿児島市中山町の虚無僧踊」
     市指定有形民俗文化財「滝ノ下の田の神」

7月29日中山町にある白山神社で虚無僧踊りが奉納されました。
ここ谷山で唯一の県指定無形民俗文化財です。

谷山観光協会発行の「谷山の歴史と文化財」によると
 豊臣氏滅亡後その再興をはかり、農兵をおこそうとして棒術を教えたことから
 この踊りが起こった。
 幕末幕府の密使が虚無僧に姿をかえて村にはいり、無礼な振る舞いをしたので
 農民たちがあやしいと思い天秤棒でこれに打ち掛かって倒したことから
 この踊りが起こった。
と言い伝えられているようです。

また、農民が虚無僧に打ち掛かったが逆に切られてしまい
農民の血で赤く染まった場所が旧伊作街道の「赤土坂」である、
という方もいらっしゃいます。

中山の虚無僧踊りは、地元白山地区で生まれ育った青年によって
尺八、三尺棒を持った虚無僧1人 対 六尺棒を持った農民2人が1組となり
計5組で構成されています。

虚無僧と農民の切りあいが由来とあって
踊りというより「立ち回り」に近いと感じました。
テンポもだんだん早くなり、迫力のある奉納でした。

今年は虚無僧役のうち3人が地元の中山小学校の生徒さんで
練習期間はたったの5日間だったそうですが、
大人に引けを取らず虚無僧を立派に成し遂げていました。

これは白山神社の鳥居の足元にある「力石」です。
昔はこれを本当に持ち上げて力自慢をしていたそうですよ。

ちなみにこれは白山神社の西側、
滝ノ下地区にある田の神様(たのかんさぁ)です。
鹿児島市の指定有形民俗文化財です。

弥生時代の住居跡

当館から50mほど先で発掘作業が行われているので、ちょっと覗いてきました。

弥生時代の住居跡だそうです。

この辺りも掘ったら土器が出てくるかな。

辻之堂の馬頭神

先日ご紹介した当館前の田の神さぁの隣には「馬頭神」の石碑があります。
馬頭神の石碑は家畜の健康と安全を願い、また弔うために建てられています。

ここ谷山は昭和40年代頃までは田畑が広がっていたそうで
きっとたくさんの農耕用の牛馬がいたのでしょう…。

しかし、10年ほど前に私が谷山に移り住んできた頃は
街並みは今とそれほど変わらない現代の閑静なこの住宅街で、
普通に馬が飼われていました。
普通の民家の庭先に、犬小屋に犬がいるように、馬小屋に馬がいました!
それも1件だけではなく複数件!!

最初私にとっては、かなり衝撃的な光景で
「農耕馬なんだろうか?ペットなんだろうか?」
「犬みたいに散歩をさせているんだろうか?」
「そもそも公道を歩けるんだろうか?」
と、頭の中を???が駆け巡りました。

地元の方々に「馬がいるんですね!?」と驚きを伝えても
「あぁいるよね。」
何驚いてんだ?という反応。
谷山の人にとっては違和感のない日常風景のようでした。
 
それもそのはず、
この辺り(永田橋のたもと)は伊作街道の宿場だったそうです。
永田川の川岸で馬を荒い、永田橋から現JR谷山駅方面の川沿いには
蹄鉄を打つ鍛冶屋や茶屋、車屋(馬車)が並んでいたそうです。
乗り継ぐための馬が沢山飼われていて、今も当時の小屋が残っています。

残念ながら、ここ数年どのお宅も馬を手放してしまい、
もう、この辺りで馬を見かけることはなくなりました。