ただ今 慈眼寺公園内の桜公園では桜が満開となっています。
ぽかぽか陽気に誘われて,たくさんの方がお花見を楽しんでいます。
桜公園の上にある公園(ふるさと考古館前)は菜の花が満開です。
花畑の周辺は甘い香りに包まれて,五感で春を満喫できますよ。
公園内は新芽も吹いてきています。
そうめん流しも始まっていますよ。

ぜひ谷山に春を感じにいらしてください!

ただ今 慈眼寺公園内の桜公園では桜が満開となっています。
ぽかぽか陽気に誘われて,たくさんの方がお花見を楽しんでいます。
桜公園の上にある公園(ふるさと考古館前)は菜の花が満開です。
花畑の周辺は甘い香りに包まれて,五感で春を満喫できますよ。
公園内は新芽も吹いてきています。
そうめん流しも始まっていますよ。

ぜひ谷山に春を感じにいらしてください!
当館の最寄駅でもあるJR指宿枕崎線の谷山駅から慈眼寺駅まで
ただ今線路の高架工事が行われています。→☆
昨日は26日のオープン記念のイベントとして高架を歩くレールウォークが開催されました。
変わりゆく谷山を見学できる貴重な機会なので参加してみました。

慈眼寺公園から新慈眼寺駅に向けて

新慈眼寺駅舎から望む現慈眼寺駅

ゴールは水戸岡鋭治氏デザインの谷山新駅舎。
シンプルな空間にも天井には心憎い配慮が。
急激に変わっていく街並みに戸惑いをおぼえることもありますが
新駅舎のオープンもとても楽しみです。
7キロのウォーキングの後はカフェトワメゾンでモーニングを美味しくいただきました。

ただ今谷山の ふるさと考古歴史館 で開催中の「古代からのメッセージ展」では
鹿児島紡績所技師館(異人館)跡の発掘調査での出土品や福昌寺の模型と併せて
谷山北麓(谷山小学校周辺)と不動寺遺跡(JR慈眼寺駅北側)の出土品が展示されています。
不動寺遺跡では鹿児島市内で初めて出土した「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)
(破鏡)」という青銅鏡が展示されていました。
当時非常に貴重で手に入らないものだったので,物理的に数を増やすために故意に破壊し,
破片を磨き穴を開けて装飾品として使用されていたようです。
この不動寺エリア,昭和ひとけた生まれの男性の話によると
「ここは掘るといろいろ出てきてね,子供の頃は宝探しと称して掘りに来たものだったよ。
僕は‘勾玉’が好きだったから勾玉狙いで掘って,何個が見つけて持ってたよ。」
とのこと。当時の子供たちの宝箱は本当の‘宝箱’だったかたもしれませんね!
谷山北麓は弥生時代の住居跡だったことは知られていますが,
今回の出土品の中には昭和30年代まで使用されていたヤクルトのガラス瓶もあり,
弥生時代から近世までの人々の生活が身近に感じられる内容でした。
ふるさと考古歴史館にむかう「紫陽花ロード」はこれからが見頃です。
企画展は入場無料ですので,ぜひ足を運ばれてはいかがでしょうか。
現在の谷山小学校を中心とした谷山麓地区の寺跡を少しずつご紹介していこうと思います。
当館周辺では,潮海山円明庵,瑠璃山多福庵,辻堂,常楽寺などがありました。
どこも廃仏毀釈で廃寺となった後は墓地や公共施設となりました。
谷山麓地区の寺跡 その1
まずは辻堂(つじのどう)
ここは皇徳寺の末寺にあたり,場所は当館の斜め向かいにありました。
廃寺後は墓地ではなく公民館となり今日に至ります。
現在の名称は「辻ノ堂後公民館」で
敷地内には辻堂地区の田の神さぁと馬頭観音が移設されています。
また桜島の大正大噴火の記念碑も地元(原口)の青年会によって建立されています。
→こちらを参照

(左)田の神さぁ (中)馬頭観音 (右)燈籠

桜島爆発記念碑と辻ノ堂後公民館
以前 谷山の清泉寺跡に,ここで自害した垂水島津家の島津久章の五輪塔の墓があり,
地元では「大和さぁ」とよばれ疱瘡の神様として親しまれている,とご紹介しました。

なぜ久章公が疱瘡の神様として評判になったのか
南日本新聞(昭和38年4月8日付)に記載されていました。
「久章は1.8m近い大兵で、力も強かった。いい伝えによると、幼少のころ疱瘡を患い
顔一面のあばたで容姿怪異、見るからにどうもうな顔つきで、
久章の名を聞いただけで泣く子もだまるとさえいわれ、
お世辞にも色男という顔ではなかった。-省略-
そのことが後年大和さんにお参りすると疱瘡にかからない、
またかかっても軽いといわれ、南薩で非常に評判になって
“ほそん神さぁ”とあがめるようになった。」のだそうです。
この疱瘡の神様「大和さぁ」の評判は遠く指宿まで届いていたようで
「今和泉郷岩本村に大和神社があり、祭神は島津大和守久章で疱瘡の祈願に霊験がある
とされている。同神社の境内に「府学助教宮下希賢、明和九年重建、岩本村大和大明神」 と石碑に漢文で詳しくしるされている。」(谷山市誌)とのこと。
また,
「天明年中、全国的に疱瘡が流行、人々は大いに困った。そのころ指宿市今和泉町では
「なんとかこの厄病からまぬがれよう」と、谷山の大和さんを同町□□神社の境内に
勧請したところ、非常にご利やくがあったと伝えられ、いまのその石碑が残っている」(南日本新聞 昭和38年4月8日付)とあるので
今も残っているのでは,と探してみることにしました。
大和さぁが勧請された大和大明神祠は三国名勝図会によると
「領主館より辰の方九町余、岩本村にあり祭神 公室支族島津大和久章の霊を崇む」
とありますが、すでに大和大明神は現存していないので,
地元の方にお話を伺いながら探しました。
(ご協力いただきありがとうございました)
すると,現在 大和さぁ勧請の石碑は,豊玉姫神社の境内にありました。
社殿の裏の方にひっそりと建っています。


碑文は正面と後ろはかなり風化していましたが,左右面はほぼ解読できそうです。



指宿の方々でも大和さぁ(久章公)が疱瘡の神様として勧請されてきた事実や
石碑が豊玉姫神社にあることをご存じの方はほどんといませんでした。
医学が進歩して神頼みをする必要が無くなったおかげで,
大和さぁもお役御免となって久しいのでしょう。
谷山でも昭和30年代までは疱瘡踊りが残っていましたが,
現在はすっかりなくなってしまいました。
ちなみに谷山の疱瘡踊りは
「服装は長着物、帯、白足袋、草履、手ぬぐい、右手に扇、御幣を持ち、
唄も踊りもゆるやかで優雅である。人数は二十数人、囃子は太鼓と三味線」
(谷山の歴史と文化)だったそうです。
唄の歌詞は以下のとおり
今年しやヨイヨイ サーヨイ年 おほそがはやる イヤかるいとかるいとな
おほそ神さんな おどいすきでござる イヤかるいとかるいとな
おどいおどれば おほそもかるい イヤかるいとかるいとな
稲の出穂よりも 見事にそろた イヤかるいとかるいとな
シメもおろさず も払いもいらず イヤかるいとかるいとな
さやが三尺 しげおが二丈 イヤかるいとかるいとな

中山町滝ノ下にあった帝釈寺は皇徳寺の末寺で
開基は正平22年(1367年),開山は来船来提大和尚といわれています。
寺内には観音堂や不動明王があったそうです。
廃仏毀釈の後,最近まで放置されていたためかなり荒廃していますが
跡地の草祓いと石塔の復元が行われるということで
ちょっとしたお手伝いを兼ねて見学をさせていただきました。

散乱した石塔には木の根が絡まり150年という年月を実感させられます。

墓石の苔を丁寧に取り除いて行くと,ベンガラの彩色が残っていました。

中島喜右衛門平利充 享保7年銘の墓

岩永八兵衛重貞 享保6年銘の墓

山上にある石祠

五輪塔は人丈よりも大きく2mほど。
様式から鎌倉南北朝時代のものでは,とのことです。

谷山諸記によると
「一帝釈寺地罷仮屋ヨリ亥ノ方壱里余。
但寺領高寄附高無御座開基年号月日相知不申候
開山来船撮大ヨリ覚峯迄拾三代当分無住
右寺内
一観音堂一宇 但仏躰木立像高サ七尺余日羅之作之由
右寺内
一不動明王一躰但木立像高サ三尺二寸 脇立二躰 弐尺三寸ツツ日羅作之由」
とあるので,慈眼寺を開いた日羅上人作の仏像が数体あったのでしょう。
地区の民家に「…大浦山帝釈寺住…」と記された
高さ19cmの韋駄天像が保管されているそうです。
*「大浦」は現滝ノ下のこと