疱瘡の神様「大和さぁ」勧請の碑

以前 谷山の清泉寺跡に,ここで自害した垂水島津家の島津久章の五輪塔の墓があり,
地元では「大和さぁ」とよばれ疱瘡の神様として親しまれている,とご紹介しました。
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なぜ久章公が疱瘡の神様として評判になったのか
南日本新聞(昭和38年4月8日付)に記載されていました。
「久章は1.8m近い大兵で、力も強かった。いい伝えによると、幼少のころ疱瘡を患い
顔一面のあばたで容姿怪異、見るからにどうもうな顔つきで、
久章の名を聞いただけで泣く子もだまるとさえいわれ、
お世辞にも色男という顔ではなかった。-省略-
そのことが後年大和さんにお参りすると疱瘡にかからない、
またかかっても軽いといわれ、南薩で非常に評判になって
“ほそん神さぁ”とあがめるようになった。」のだそうです。

この疱瘡の神様「大和さぁ」の評判は遠く指宿まで届いていたようで
「今和泉郷岩本村に大和神社があり、祭神は島津大和守久章で疱瘡の祈願に霊験がある
とされている。同神社の境内に「府学助教宮下希賢、明和九年重建、岩本村大和大明神」 と石碑に漢文で詳しくしるされている。」(谷山市誌)とのこと。

また,
「天明年中、全国的に疱瘡が流行、人々は大いに困った。そのころ指宿市今和泉町では
「なんとかこの厄病からまぬがれよう」と、谷山の大和さんを同町□□神社の境内に
勧請したところ、非常にご利やくがあったと伝えられ、いまのその石碑が残っている」(南日本新聞 昭和38年4月8日付)とあるので
今も残っているのでは,と探してみることにしました。

大和さぁが勧請された大和大明神祠は三国名勝図会によると
「領主館より辰の方九町余、岩本村にあり祭神 公室支族島津大和久章の霊を崇む」
とありますが、すでに大和大明神は現存していないので,
地元の方にお話を伺いながら探しました。
(ご協力いただきありがとうございました)

すると,現在 大和さぁ勧請の石碑は,豊玉姫神社の境内にありました。1759

社殿の裏の方にひっそりと建っています。
豊玉
1770
碑文は正面と後ろはかなり風化していましたが,左右面はほぼ解読できそうです。
1769
1772
1773

指宿の方々でも大和さぁ(久章公)が疱瘡の神様として勧請されてきた事実や
石碑が豊玉姫神社にあることをご存じの方はほどんといませんでした。
医学が進歩して神頼みをする必要が無くなったおかげで,
大和さぁもお役御免となって久しいのでしょう。
谷山でも昭和30年代までは疱瘡踊りが残っていましたが,
現在はすっかりなくなってしまいました。

ちなみに谷山の疱瘡踊りは
「服装は長着物、帯、白足袋、草履、手ぬぐい、右手に扇、御幣を持ち、
唄も踊りもゆるやかで優雅である。人数は二十数人、囃子は太鼓と三味線」
(谷山の歴史と文化)だったそうです。

唄の歌詞は以下のとおり
今年しやヨイヨイ サーヨイ年 おほそがはやる イヤかるいとかるいとな
おほそ神さんな おどいすきでござる イヤかるいとかるいとな
おどいおどれば おほそもかるい イヤかるいとかるいとな
稲の出穂よりも 見事にそろた イヤかるいとかるいとな
シメもおろさず も払いもいらず イヤかるいとかるいとな
さやが三尺 しげおが二丈 イヤかるいとかるいとな