有山長太郎が谷山に窯を開くことになったのは →本窯跡碑
ある太っ腹の女性と出会ったことがきかっかけでした。
もともと白薩摩の絵付け師であり,古薩摩の研究をしていた長太郎でしたが,
黒薩摩の方がより自由に表現できると思い
理想とする土を県下中探しました。
そうして,ようやく会心の土を発見したのが旧伊作街道の赤土坂でした。
(この赤土坂は県指定無形民俗文化財の虚無僧踊りの由来にもなっています)
この赤土坂の山を所有していたのが谷山南麓の池田氏でしたが,
最初はなかなか土の採取を承諾してもらえなかったそうです。
しかし,長太郎の人柄と才能を見込んだ池田モト夫人が夫を説得してくれたのでした。
このモト夫人が太っ腹な女性で,
土の採取だけでなく,池田家の屋敷内に住むことを許可し,
池田家の所有地(本窯跡地)1500坪を与えて作陶に協力したのだそうです。
それが明治32年,長太郎28歳の時でした。
明治の女性はかっこいいですね。
「歴代長太郎展」では初代長太郎作の「観音像」を展示しています。
高さ10センチほどの白薩摩です。
この観音像の底裏には「池田」と書かれているところをみると
おそらく初代長太郎がモト夫人の池田家に作ったものと思われます。
初代長太郎作品の展示は10月29日(火)までです。
10月31日(木)からは三代長太郎流石氏の作品を展示いたします。
参考 :木原三郎 昭和54年「陶工長太郎」