谷山麓地区の寺跡:多福庵

谷山麓地区の寺跡「多福庵」

多福庵も皇徳寺の末寺になります。
場所は国道225号線から谷山小学校と谷山支所の交差点を西へ曲がり,
300mほど進んだ清渓学舎の斜向かい辺りにありました。
多福寺

ここも廃寺後は墓地となり,麓地区でもかなり広い敷地の墓地だったようです。
鹿児島市との合併で徐々に万田ヶ宇都墓地へ改葬されていきましたが
平成13年頃まではまだ墓地として僅かながら残っていました。
現在は道路の拡張工事が行われ,その面影はなくなっています。

谷山麓地区の寺跡:円明庵

谷山麓地区の寺跡「円明庵」

円明庵(えんみょうあん)も皇徳寺の末寺になります。
場所は国道225号線から谷山サザンホール方向へ下り,突き当たりの左側になります。
現在は老人ホーム,円明庵公園として地域の憩いの場となっています。
円明3
円明
円明2

こちらも廃寺後は墓地となりました。
谷山出身の勤皇の志士 是枝柳右衛門の墓がありましたが
昭和42年の鹿児島市との合併で万田ヶ宇都墓地へ移され
現在は万田ヶ宇都墓地の無縁納骨堂の隣に改葬されています。
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谷山麓地区の寺跡:辻ノ堂

現在の谷山小学校を中心とした谷山麓地区の寺跡を少しずつご紹介していこうと思います。
当館周辺では,潮海山円明庵,瑠璃山多福庵,辻堂,常楽寺などがありました。
どこも廃仏毀釈で廃寺となった後は墓地や公共施設となりました。

谷山麓地区の寺跡 その1
まずは辻堂(つじのどう)
ここは皇徳寺の末寺にあたり,場所は当館の斜め向かいにありました。
廃寺後は墓地ではなく公民館となり今日に至ります。
現在の名称は「辻ノ堂後公民館」で
敷地内には辻堂地区の田の神さぁと馬頭観音が移設されています。
また桜島の大正大噴火の記念碑も地元(原口)の青年会によって建立されています。
こちらを参照
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(左)田の神さぁ  (中)馬頭観音  (右)燈籠
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桜島爆発記念碑と辻ノ堂後公民館

公開講座のご案内(谷山北公民館自主学習グループ「谷山北ふるさと再発見」)

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北谷山公民館自主学習グループ「谷山北ふるさと再発見」より
公開講座のご案内をいただきました。

演題は『薩摩藩英国留学生選抜の経緯~開成所設立150年~』です。
平日になりますが、初心者にも楽しめる内容となっているそうです。
ぜひ足をお運び下さい。

講師:町田剛士 先生(鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸員)
日時:10月16日(木曜日) 午後2時~4時
会場:北谷山公民館 中会議室
費用:300円(資料代)

お問い合わせ・申し込み
谷山北ふるさと再発見 黒瀬さん FAX (099)265-7732

疱瘡の神様「大和さぁ」勧請の碑

以前 谷山の清泉寺跡に,ここで自害した垂水島津家の島津久章の五輪塔の墓があり,
地元では「大和さぁ」とよばれ疱瘡の神様として親しまれている,とご紹介しました。
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なぜ久章公が疱瘡の神様として評判になったのか
南日本新聞(昭和38年4月8日付)に記載されていました。
「久章は1.8m近い大兵で、力も強かった。いい伝えによると、幼少のころ疱瘡を患い
顔一面のあばたで容姿怪異、見るからにどうもうな顔つきで、
久章の名を聞いただけで泣く子もだまるとさえいわれ、
お世辞にも色男という顔ではなかった。-省略-
そのことが後年大和さんにお参りすると疱瘡にかからない、
またかかっても軽いといわれ、南薩で非常に評判になって
“ほそん神さぁ”とあがめるようになった。」のだそうです。

この疱瘡の神様「大和さぁ」の評判は遠く指宿まで届いていたようで
「今和泉郷岩本村に大和神社があり、祭神は島津大和守久章で疱瘡の祈願に霊験がある
とされている。同神社の境内に「府学助教宮下希賢、明和九年重建、岩本村大和大明神」 と石碑に漢文で詳しくしるされている。」(谷山市誌)とのこと。

また,
「天明年中、全国的に疱瘡が流行、人々は大いに困った。そのころ指宿市今和泉町では
「なんとかこの厄病からまぬがれよう」と、谷山の大和さんを同町□□神社の境内に
勧請したところ、非常にご利やくがあったと伝えられ、いまのその石碑が残っている」(南日本新聞 昭和38年4月8日付)とあるので
今も残っているのでは,と探してみることにしました。

大和さぁが勧請された大和大明神祠は三国名勝図会によると
「領主館より辰の方九町余、岩本村にあり祭神 公室支族島津大和久章の霊を崇む」
とありますが、すでに大和大明神は現存していないので,
地元の方にお話を伺いながら探しました。
(ご協力いただきありがとうございました)

すると,現在 大和さぁ勧請の石碑は,豊玉姫神社の境内にありました。1759

社殿の裏の方にひっそりと建っています。
豊玉
1770
碑文は正面と後ろはかなり風化していましたが,左右面はほぼ解読できそうです。
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指宿の方々でも大和さぁ(久章公)が疱瘡の神様として勧請されてきた事実や
石碑が豊玉姫神社にあることをご存じの方はほどんといませんでした。
医学が進歩して神頼みをする必要が無くなったおかげで,
大和さぁもお役御免となって久しいのでしょう。
谷山でも昭和30年代までは疱瘡踊りが残っていましたが,
現在はすっかりなくなってしまいました。

ちなみに谷山の疱瘡踊りは
「服装は長着物、帯、白足袋、草履、手ぬぐい、右手に扇、御幣を持ち、
唄も踊りもゆるやかで優雅である。人数は二十数人、囃子は太鼓と三味線」
(谷山の歴史と文化)だったそうです。

唄の歌詞は以下のとおり
今年しやヨイヨイ サーヨイ年 おほそがはやる イヤかるいとかるいとな
おほそ神さんな おどいすきでござる イヤかるいとかるいとな
おどいおどれば おほそもかるい イヤかるいとかるいとな
稲の出穂よりも 見事にそろた イヤかるいとかるいとな
シメもおろさず も払いもいらず イヤかるいとかるいとな
さやが三尺 しげおが二丈 イヤかるいとかるいとな

帝釈寺跡


中山町滝ノ下にあった帝釈寺は皇徳寺の末寺で
開基は正平22年(1367年),開山は来船来提大和尚といわれています。
寺内には観音堂や不動明王があったそうです。

廃仏毀釈の後,最近まで放置されていたためかなり荒廃していますが
跡地の草祓いと石塔の復元が行われるということで
ちょっとしたお手伝いを兼ねて見学をさせていただきました。

散乱した石塔には木の根が絡まり150年という年月を実感させられます。

墓石の苔を丁寧に取り除いて行くと,ベンガラの彩色が残っていました。

中島喜右衛門平利充 享保7年銘の墓

岩永八兵衛重貞 享保6年銘の墓

山上にある石祠

五輪塔は人丈よりも大きく2mほど。
様式から鎌倉南北朝時代のものでは,とのことです。

谷山諸記によると
「一帝釈寺地罷仮屋ヨリ亥ノ方壱里余。
但寺領高寄附高無御座開基年号月日相知不申候
開山来船撮大ヨリ覚峯迄拾三代当分無住
右寺内
一観音堂一宇 但仏躰木立像高サ七尺余日羅之作之由
右寺内
一不動明王一躰但木立像高サ三尺二寸 脇立二躰 弐尺三寸ツツ日羅作之由」
とあるので,慈眼寺を開いた日羅上人作の仏像が数体あったのでしょう。
地区の民家に「…大浦山帝釈寺住…」と記された
高さ19cmの韋駄天像が保管されているそうです。
*「大浦」は現滝ノ下のこと

清泉寺跡 2

清泉寺跡を流れる障子川を挟んだ西側にも磨崖仏を見ることが出来ます。

この磨崖仏の下には「在家菩薩」と刻まれています。
高さはおよそ2m。
顔は壊されていますが,日新公(島津忠良)を神格象徴したものといわれています。

その右側にある2mを超える恐ろしい形相の磨崖仏には「妙有大姉」と銘があります。
これは日新公夫人の妙宥大姉と言われています。

この2体の磨崖仏から更に奥に入ると自然石舞台の屋根遺構があります。

地形的に全体像を撮影することが難しかったので
舞台の上から遺構のある壁部分だけ撮影しました。
深い溝や円形と方形の掘りこみがあり、隣接する岩には宝剣の磨崖が残っています。

「仏塵挨箒 拭不浄紙」と刻まれているそうです。

日新公夫妻の磨崖仏の正面には、小川を挟んで阿吽の金剛力士像の磨崖仏があります。
両方とも2m以上あり,驚くことに廃仏毀釈にも壊されることなく
顔もきれいに残っています。

像の間に刻まれている碑文には、今回はよく判読できませんでしたが、
貞享元年申子(1684)四月一五日とあるようです。
また、石工2名の名前「岩長八兵衛、中村長右衛門」と記されているようです。
現在 清泉寺跡側からこの金剛力士像のある場所へ行くには
川を渡る橋が掛っていないため 直接川へ降りて護岸をよじ登らなければなりませんが
力士像のある崖の裏手に小道がありましたので、国道の方から下るルートがあるようです。

清泉寺という名の通り,今でも本尊磨崖仏の下と清泉寺入口東側には
こんこんと泉が湧きあがっています。

水を汲みに来ていた地元の方の話によると
ここの水で焼酎を割るとまろやかで美味くなるそうです。
掘られているのは月輪の中の阿弥陀坐像といわれています。

参考資料:谷山市誌 昭和42年

 

清泉寺跡 1


(鹿児島市下福元町の草野地区にある清泉寺跡)

清泉寺は南九州市川辺町にある宝福寺の末寺にあたり
慈眼寺と同じく百済の日羅上人が飛鳥時代に開いたといわれています。
一時廃れていた寺は覚卍(かくまん)和尚によって再興され
明治2年の廃仏毀釈で廃寺となりました。

本尊は日羅作と伝えられている阿弥陀磨崖仏(高さ2.7m)で
その左には「南無阿弥陀仏」と刻まれています。

その文字を挟むように小さな阿弥陀磨崖仏があり建長3年(1251)と刻まれています。
紀年銘のある磨崖仏では県下最古のものだそうです。

清泉寺は垂水新城の領主島津大和守久章が正保2年(1645)に
自害した場所として知られており,
現在本堂の跡地には大きな五輪塔の久章の墓が建てられています。


島津久章は寛永16年(1639)十九代光久の命を受け江戸に行き,
紀州家に立ち寄った際の無礼により川辺の宝福寺に5年間幽閉されました。
その後島流しの藩命が下りましたが従わず,この清泉寺に移され上意討ちにあい
自害したといわれています。(久章三十歳)

その後,地元の人たちは「大和さぁ」とよんで
明治の末期までは疱瘡の神様として親しんできたそうです。

これは本尊磨崖仏の奥にある覚卍和尚の墓です。
「当寺開山字堂(覚?)卍和尚墓塔」と刻まれているようです。

覚卍和尚とは変わった名前ですが、
「三国名勝図会」の薩摩国河辺郡の内 川辺 のくだりに名の由来が記されています。
「…開山覚卍字堂禅師、由来記等を按ずるに、禅師は薩州日置郡伊集院邑久木氏の人にて、母懐妊の時胸に卍字の相を現す、因って名とせり…」

この周囲には石塔群と板碑群があり,板碑には五輪塔と月輪が陽刻されています。
五輪塔が二基のものと一基のものがあり,またその形状も様々です。

これは清泉寺旧本堂前石段で,右手には手水鉢があります。

この石段を登っていくと参道に石塔が並んでおり
その石塔群の中から50ほどの竹の子が生えてきていました。

このままだとまずい事になるのでは…と懸念していましたが
1週間後に行くと案の定,竹の子は2mを超え
石塔は押し崩されて参道に散乱していました。

夏場になると草が生い茂り,マムシの散歩道となる清泉寺跡ですが
この時期は福平校区公民館運営審議会の方々がきれいに草祓いをされていて
新緑と水のせせらぎを楽しみながら見学することができました。

参考資料:「谷山市誌」 昭和42年

移動図書館


この緑色のバスは鹿児島市図書館の移動図書館です。
半分は児童書,半分は小説や専門書など大人向けです。
在庫があればリクエストに応じて次回持ってきて下さるんです。
貸出カードは身分証明書があればその場で作ってもらえますので,
お気軽に足をお運びくださいね。

【 巡回日時 】
毎月第1、第3金曜日
 14:10 14:40
【 場所 】
三宅美術館,特別養護老人ホームみやび 駐車場

谷山漫才

15日に開催された「谷山げいのう講座」で谷山芸能保存会による谷山漫才を見てきました。

これは谷山ことばで繰り広げられる,現代でいうコントです。
今年の演目は「恵比寿大黒」でした。

七福神の浜でばい(花見)のため,えべっさぁ(恵比寿様)とでこっさぁ(大黒様)が
酒の肴を用意するため谷山(七つ島)沖へ釣りに行く,という筋書きです。

(えべっさぁ(右)が持ち上げているのは谷山名物 一口蛸)

恵比寿様と大黒様に扮しているのは女性で,時事問題もからめた掛け合いをします。
「アベノミクス」や「今でしょ!」「お・も・て・な・し」という単語は聞き取れるのですが,その前後の掛け合いが谷山独特のことばのため,会場は爆笑の渦になっても,
残念ながら私には半分くらいしか理解できませんでした。

そもそもこの谷山漫才が生まれた経緯は,浦町(漁村)谷山で出舟,入舟,大漁祝いに唄われてきた「今度この節」を後世に残すためなのだそうです。
谷山の風習をストーリーに組み込んだ滑稽な掛け合いのお囃子として
口伝で残されてきた「今度この節」を併せ,谷山漫才となったそうです。

この辺りの浜は埋め立てられ大型商業施設が立ち並び,漁村の面影はすっかりなくなってしまいましたが,当時の谷山を知らない世代も余興の演目としてなら唄い継いでいくことができますね。

谷山漫才の演目は「恵比寿大黒」の他「桜島物語」や「とこちえ節」といったものもあるそうです。もう少し言葉の勉強をして,他の演目もぜひ見てみたいものです。