錫山相撲と錫山の史跡

錫山相撲
【 開催地 】錫山公民館立神館(錫山児童クラブ) 相撲場
【 開催日 】毎年11月3日
【開催時間】午前10時~ 土俵開き児童
      生徒、親子の取り組み
      高校生(樟南、鹿児島実業、鹿児島商業)の取り組み
      昼休み休憩
      午後1時~ 相撲甚句
      赤ちゃん相撲、一般の取り組み
      午後3時~ 抽選会


11月3日(文化の日)に鹿児島市下福元町の錫山地区で錫山相撲が行われました。
1655年に鹿追原魑魅(かおうばるすだま)峠に錫鉱山を発見し開発した
八木主水佑元信(やぎもんどのすけもとのぶ)が、1677年、同地に祀った山神を現在地(大山祗神社)に遷座し、奉納したのが錫山相撲の始まりといわれています(谷山市誌参照)
最盛期には年4回、その後年2回となり、現在は11月3日の年1回行われています。
地元の方によると、戦時中も中断することはなかったそうで、今年で362回目を迎えました。

大山祗神社で取り組みを待つ高校生力士たち

大山祗神社の境内には八木主水元信を祀った八木神社もあります。
こちらは錫山鉱山発見300年祭(昭和31年12月17日)に建立され
翌昭和32年鎮座祭が執り行われました。(谷山市誌参照)

こちらの黄色い装束の行司さんは立行司で、御年89歳とのこと。
まだまだ声にも張りがあり、足さばきも見事でした。

相撲観戦の後は、久しぶりに女郎墓へ。
当時、山師の慰安として連れてこられた女郎さんたちのお墓です。
地元の方々が定期的に草刈りなど手入れをされているようです。


以下は、今年の5月に教育委員会の許可を得て、専門家の先生と見学した時の画像です。




精錬場跡

風呂跡
坑道から出てきてすぐに風呂に入れるのは、鉱物の持ち出しができないように、
という目的もあるそうです。

しめ縄作り

先週、西谷山の堂園地区公民館で行われたしめ縄作りに参加してきました。
(主催:いちょうおたっしゃ倶楽部)
同地区の田んぼで収穫した稲わらを使用して、毎年各家庭用のしめ縄を自分たちで作っているそうです。

稲は昔から比べると品種改良がすすみ、風雨に強くするため背丈が低くなっているそうで、
機械で刈ると短くなりしめ縄作りに適さないので、この日のためにわざわざ手作業で稲を刈ってくださっているとのこと。

稲束からしめ縄に適した稲を選別し(ここで約1/4ほどになる)、霧吹きで水を含ませてから、槌で叩いて柔らかくほぐして準備完了。

慣れていないと一人ではなかなか練ることができないので、二人ひと組で練っていきます。

慣れている方は、足に挟んで上手に練り上げていきます。
神様用は左巻き、一般用は右巻きで作ります。


わいわい楽しく、個性たっぷりのしめ縄に。

縁起物の飾りをつけて完成です。


最後に地域の水神様と馬頭観音様のしめ縄を掛け替えて、今年のしめ縄作りは完了しました。
地域でそれぞれ個性にあふれたしめ縄を見られるのも、お正月の楽しみですね。

妙音十二楽

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【 開催地 】日置市吹上町田尻 中島常楽院
【 開催日 】毎年新暦10月12日
【開催時間】
午後1時~1時45分 妙音十二楽法要
午後1時45分~2時 奉納さつま琵琶
午後2時~2時15分 宝山検校墓前供養
【 指 定 】
妙音十二楽 鹿児島県指定無形文化財(芸能)
中島常楽院 鹿児島県指定記念物(史跡)
薩摩琵琶  鹿児島県指定無形文化財(芸能)

10月12日、日置市吹上町の中島常楽院で妙音(みょうおん)十二楽が行われました。

妙音十二楽は、1196年島津氏初代忠久に従って京都から薩摩に下ってきた常楽院第十九代住職 宝山検校(ほうざんけんこう)によって伝えられたとされています。
琵琶、笛、太鼓、手拍子、妙鉢(シンバルのような打楽器)、銅鑼、大法螺、小法螺の8種の楽器で演奏されます。
盲僧が琵琶の伴奏で釈文を読み続け、釈文の節ごとに合奏が入ります。
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『続 常楽院沿革史』によると十二楽には「松風」「村雨」「杉の森」「軒ノ水」「五調子」「忘れ撥(ばち)」「七つ撥」「八つ橋」「六調子」「盤渉(ばんしき)」「鳳の声」
「後生楽」の十二曲が伝えられているそうです。

釈文は「うちまき」「年号」「妙音の巻」「わたまし」「釈迦の段」「琵琶の釈」
「はんごんの釈」「本経(ほんぎょう)」「夢の段」「星の段」「回向」の十二種だそうです。

参考:妙音十二楽保存会発行資料

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妙音十二楽の後に、中島常楽院が発祥とされている薩摩琵琶の演奏がありました。
仏堂の宝山検校に向って演奏されるので、見学者は演者の後ろ姿を見ながら聞くことになり
とても新鮮な経験でした。この日演奏された「蓬莱山」という曲は「君が代」のもとになったといわれているそうで、確かになじみのある歌詞がところどころうかがえました。

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境内の仁王像には、近くの大汝牟遅神社(おおなむちじんじゃ)と同じように貝殻が供えられていました。吹上浜の砂は盛られていませんでしたが…。

帰りにその大汝牟遅神社へ寄ったところ、大クスの鳥居が経年劣化で危険とのことで撤去する瞬間に居合わすこととなりました。
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鳥居を再建する予定は無いとのことで、最後の姿を目に焼き付けることができました。

鹿児島の十五夜行事

19日は各地で十五夜行事が行われました。

鹿児島では,一般的に十五夜の夜は綱引きと相撲が行われます。
南さつま市のように独特の風習がある地区もありますが,
一般的には各家庭でお供えをして,地区では綱引きと相撲をします。

当館のある谷山の辻之堂地区はどのような十五夜が行われていたのか
地元の方に伺ってみました。

まずお供えですが,臼の上に農具の箕を置き,そこに季節の果実や月見団子
ススキや萩の花を供えます。
鹿児島独特のお供えは,升に乗せられた里芋の親いもです。
これは子孫繁栄の願いが込められており,
現代でも変わらず供えられています。

行事の方ですが
戦前までは辻之堂地区と隣の原口地区と合同で十五夜行事を行っていたそうです。
辻之堂は昭和30年代まで水田が,原口地区は畑が広がっていましたので
十五夜の時期は辻之堂の稲わらで綱引きの綱を練ったそうです。

十五夜の縄練りは南さつま市で今でも見ることができますが
ここ谷山麓地区では綱練りはもう行われていません。
綱練りはやぐらを組んで,そこに綱を掛けて練っていく作業です。
綱練りと綱引きを行っていた場所は当館の東よりの麓地区との境あたりだったそうです。
綱引きは大人も子供も参加して,唄を歌いながらにぎやかに行われていたそうです。
ちなみに,辻之堂と原口地区の十五夜行事に相撲はなかったそうです。

(綱引きと綱練りが行われていた通り)

面白いのは,通りをひとつ隔てた麓地区(郷士居住地区)では
稲わらが地区内で手に入らないことから
十五夜はお供えをするだけで綱引きや相撲などは行われなかったそう。
違う地区の行事には参加資格がないので
いつも辻之堂と原口の綱引きを見学だけしていたのだそうです。

綱引きを終えた後の綱は,50センチほどに裁断し,
馬や牛のエサ,燃料にしたそうです。

ちなみに坊津の十五夜綱引きは有名ですが
漁村なので稲わらではなく茅で綱を練っています。
終わると50センチほどに裁断し,翌日入札が行われ
落札された茅の綱は畑の堆肥になるのだそうです。

戦後は小学校のあいご会が主催となって十五夜行事を行うことになったので
麓地区でも公民館で綱を練って,それを小学校まで引きずって辻練りをして
綱引きと相撲を取っていたそうです。

以下は谷山観光協会が発行している「谷山の歴史と文化財」より
谷山の十五夜綱引唄(作詞 黒木弥千代氏)をご紹介します。

綱はサーヨン サーヨン サーヨンヨイ
今年は十五夜ん綱は三十三尋半(ぴろとかけ)
揃ろた揃ろたよ 引き子が揃ろた
稚児は鉢巻き おごじょはたすき
月は出た出た東の空に
十五夜お月様今出やった
月の光にチンチロリンがおらぶ
まぎれまぎれよ一本松まぎれ
蛭子塞神(えびすさいのかみ)さんにお願をかけて
今夜の綱引きは柳右衛門さんに見せろ
臼に箕を乗せ お餅をそえて
魚もとれもした 港は祭り
月の七つ島 流しの夜船
飲めや歌えや お月さんも踊れ

南薩摩の十五夜行事「上ノ坊の火とぼし」


【開催地】南さつま市坊津町上ノ坊地区 坂之上、上ノ坊公民館
【開催日】毎年旧暦8月15日 午後7時頃
【指 定】国指定重要無形民俗文化財「南薩摩の十五夜行事」

9月15日南薩摩の十五夜行事の一つ「火とぼし」が行われました。
本来は十三夜から十五夜までの3日間行われるものだそうですが
現在は人手不足のため十三夜だけになったそうです。


夕方から茅とダンチク(上ノ坊では‘ダレッガヤ’という)で
「バンガヤ」と呼ばれるものを作り、集落の道端へ置いていきます。
子供用と大人用があり、大人用は200キロはある、らしいです。

日が暮れると火とぼしが始まります。
場所は坂之上の呼ばれる集落と海が一望できる高台です。

火とぼしで使用する松明は、ダンチクを半分に割って寄せたものに火点け用の枯葉を詰め、
茅で練った縄でしばります。
神様の注連縄が左巻きなので、ここで使う縄は右巻きに作るのが決まりだそうです。

現在は集落の大人たちが松明を回していますが、
本来は‘大人’に昇格した15歳を含めた青年の役目。


14歳以下は椿の枝を持って、降り散る火の粉の消火隊です。
昔は14歳の中から1人だけ火とぼしが許されたそうで、
選ばれた14歳は鼻高々だったそうです。

火を回しながら
「十四は甘かで(半人前だから)火をまわせ」「火は見えたかー」と唄います。
この歌は「十四は甘かで塩まぶせ」という歌詞もあったので、
今年から「火をまわせ」に統一したそうです。
こういう唄は文字でなく口伝なので、少しずつ変化していくのでしょうね。

火とぼしが終わると、先ずは14歳以下の子供たちが唄いながら
子供用のバンガヤを担いで坂を下ります。

その後大人たちが大きなバンガヤを4〜5人で担ぎ、
上ノ坊公民館までの坂をバンガヤを担いで一気に登るのがクライマックスです。

本来このバンガヤは還暦を迎えた男性が担ぐらしいのですが、今年は男性が足りなく、
この行事が始まって以来初めて女性が加わっていました。

時代とともに祭りの形態は少しずつ変わっているようですが、
今後も伝承者が絶えない事を祈ります。

余談ですが、
以前この十五夜行事の中には15歳以上の青年に唄い継いだ歌がいくつかあったそうですが、
その内容は、いわゆる大人の仲間入りをした男の子への性教育なので、
最近は父兄からの苦情により伝承を止めたそうです。
昔の15歳が残念そうに話してくれました。

 

ヨッカブイ(高橋十八度踊り)


【開催地】南さつま市金峰町高橋地区 玉手神社
【開催日】毎年8月22日 午前9時頃
【指 定】国選択無形民俗文化財「ヨッカブイ」
     南さつま市指定無形民俗文化財「高橋十八度踊り」

8月22日南さつま市の金峰町高橋地区で、水難除けの祭り「ヨッカブイ」が開催されました。
この変わった名前は「夜着被り」が転じたそうです。

4〜6歳の男の子が扮する小ガラッパ(小河童)が高橋公民館から玉手神社まで練り歩き、そのおはやしとして地域の青年が夜着をまとい、シュロで頭を覆った大ガラッパ(河童)に扮します。

大ガラッパは手に持った笹で人々の頭を撫で水難を祓います。
子供たちは大ガラッパによって穀物袋に入れられ、玉手神社の水神前にある土俵まで持っていかれてしまいます。(時には小柄な大人も!)
悪い事をしないよう諭しているのだそうです。

神社では子供の悲鳴と泣き声、大人の笑い声が響き渡る中ガラッパ相撲が奉納され、
最後に大ガラッパが十八度踊りを踊ります。

これはヨッカブイが開催される高橋地区にある「矢石」です。
高橋地区の北東にある金峰山と南西にある野間岳は仲が悪く、
時々喧嘩をするらしいのです。
喧嘩をして野間岳が金峰山に向かって投げた矢石は届かず、
ここに落ちて刺さったのだそうです。

どちらも神社の御神体になっている山ですが
意外と大人げなくて、親しみを感じますね。

久見盆踊り【想夫恋】


【開催地】薩摩川内市 久見﨑(慶長征韓碑の広場)
【開催日】毎年8月16日
【指 定】鹿児島県指定無形民俗文化財

8月16日、薩摩川内市の久見﨑(ぐみざき)で「想夫恋」がありました。

「想夫恋」とは、保存会の資料によると、慶長2年(1597)島津義弘は当時の軍港だった久見から朝鮮半島に出陣しましたが、翌年多くの犠牲者を出し引き上げました。その後、義弘の子 家久がこの戦いで戦死した敵、味方双方の霊を慰めるため盛大な慰霊祭を行い、その時地元の未亡人たちが帰らぬ人となった夫たちを悼んで踊ったのが始まりだそうです。

踊り手の女性たちは、頭にお高祖頭巾を被り、浴衣に男物の黒紋付の羽織を着て、背中には脇差を差しています。この羽織と脇差は夫の形見を意味しているそうです。

踊りは哀調を帯びたゆったりとした踊りです。

「想夫恋」
盆の十四日に踊らぬ人は 木蓮尊者の掟に背く
殿のためなら涙は出でぬ 御霊祭りに盆踊り
切って供えし緑の髪は  亡夫も見てたも眉の露
お高祖頭巾に腰巻羽織  少しお顔を見とうござる
先を争うつわもの共が  鉄で固めたこの身体
盆の十四日の夜明けの鐘は あの世この世の扉が開く
寝ては考え起きては想う この身終わるまで君のため

正五九の引っ越し

当館近くのJR沿線では、区画整理に伴う引っ越しでみなさん大忙しです。
特に4月は翌月が正五九(しょうごく)にあたるので
月内に引っ越しできるよう頑張って準備されています。

正五九とは正月・五月・九月のことで
鹿児島では引っ越しをしてはいけない月とされています。
理由は諸説ありますが、旧暦で考えると5月、9月は田植えと刈入れの農繁期。
地域の人手を借りる事は、正月と農繁期は控えましょう、ということではないでしょうか。
(地域によっては結婚式も控えるところもあるので)

しかし、農業のサイクルとは関係のない生活を送っている現代では
なかなかそういう訳にもいきません。
そこで、どうしても正五九に引っ越しをしなければならない時は
前月に世帯主が新居に行って、履いて行った靴を置いてくると
その時点で引っ越ししたことになるようです。

鹿児島は今でも正五九月には引っ越しは減るそうですので、
気にしなければ仏滅の結婚式のように、案外狙い目なのかもしれませんね。

太郎太郎踊り、次郎次郎踊り

太郎太郎踊り
【開催地】 薩摩川内市高江町 南方神社
【指 定】 県指定無形民俗文化財
【開催日時】平成25年3月3日(日) 10:00

次郎次郎踊り
【開催地】 薩摩川内市久見町 諏訪神社
【開催日時】平成25年3月3日(日) 13:30

次郎次郎踊り
【開催地】 薩摩川内市水引町 射勝神社
【指 定】 薩摩川内市指定無形民俗文化財
【開催日時】平成25年3月3日(日) 13:50

薩摩川内市へ五穀豊穣と安産祈願のお祭り
「太郎太郎踊り」と「次郎次郎踊り」を見てきました。

3月3日に開催されたのは
高江町南方神社の「太郎太郎踊り」(鹿児島県指定無形民俗文化財)
久見町諏訪神社の「次郎次郎踊り」
水引町射勝(いすぐる)神社の「次郎次郎踊り」(薩摩川内市指定無形民俗文化財)です。

太郎太郎も次郎次郎も最初に神事が執り行われ
その後テチョ(父親)と息子が「うしょひいてけー」(牛を連れてこい)と掛けあいながら
田打ちと出産の喜劇を半分即興で演じます。

最後は籾種を撒き、それを頂いて帰る、
というのが大体の流れですが、それぞれ少しずつ違いがありました。

高江町南方神社の「太郎太郎踊り」は
地元の小学5〜6年生が田打ちの演じ、その後
オンジョ(祖父)とテチョ(父)と太郎(息子)と牛が登場。
なぜか最後に太郎が子供を産みます。
最後に籾種に見立てた玄米を神主さんが撒きます。

久見町諏訪神社の「次郎次郎踊り」は
オンジョではなくカカァ(母)が登場します。
子供はカカァが産み
最後に登場した演者たちが紅白の煎粉餅(いこもち)を撒きます。

水引町射勝神社の「次郎次郎踊り」は
地元小学生が葉のついた木枝で害虫を追い出すしぐさをします。
登場人物は、テチョ、牛、ハナドイ(牛の鼻もち)、モガオシ(牛の鋤押し)、ヨメジョ(嫁)。
終始無言で行われ、登場人物は白手拭いで覆面をしているのが特徴です。
男たちは観衆を害虫に見立て「トッゴロ」(火のついた丸太)で追い払います。
覆面の男がトッゴロを抱えて無言で追いかけてくるので、
大人でもちょっと怖いです…。
最後はヨメジョが出産し、籾種と落花生が撒かれます。

3月17日(日)には
いちき串木野市の羽島神社で太郎太郎踊りが奉納されるそうです。

笠沙町片浦のお伊勢講

【 開催地 】南さつま市笠沙町片浦地区
      片浦公民館片浦漁港

【開催日時】平成25年2月11日 浜下り15:00

笠沙地区では野間池、赤生木、小浦、片浦の4ヶ所でお伊勢講が行われています。

お伊勢講とはお伊勢参りに誰しもが行ける時代ではなかったので
寄附を募って地域の代表者が代参する仕組みの事です。

片浦のお伊勢講は片浦公民館での神事の後、
幟持ち2名を先頭に面を被り薙刀を持った二才(15歳の青年)、
太鼓、神輿、稚児、神主と続いて浜下りをします。

途中、二才たちが散り散りとなり薙刀で沿道の見物人の頭を叩きます。
小さな子どもたちは面が怖くて泣き叫んでいましたが、
この二才たちに叩かれると一年間無病息災で過ごせるそうです。

浜まで下ると野間岳に向って「オイヤナー、オイヤナー」と歌う、
とのことだったのですが、「オ、オ、オ、オー」としか聞こえませんでした。
同じ県下でもこの辺りの言葉は鹿児島市とまた少し違うので、
私が聞きとれなかっただけなのかもしれません。

これは下った浜(片浦漁港)の片浦恵比寿大明神。