坂田燦の「おくのほそ道」版画展より⑥

8月29日高岡を発った芭蕉は,
倶利伽羅(くりから)峠を越えて午後2時ごろ金沢へ入りました。
ここ金沢では弟子の一人,小杉一笑(こすぎいっしょう)に会うことを大変楽しみにしており,着いたら先ず一番に一笑を訪ねようとしていました。

しかし,残念ながら一笑は前年に36歳の若さで亡くなっており,
金沢に到着して一笑の死を知った芭蕉は大変に悲しみました。
そして,9月5日に催された一笑の追善会でこの句を詠んだそうです。

「塚も動け 我泣声(わがなくこえ)は 秋の風」

墓前で私が泣く声は,秋風となって君が眠る塚を動かして,
君の魂まで届いているだろうか…

坂田燦の「おくのほそ道」版画展より④

寛延21年(1644)伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)に生まれた松尾芭蕉は
寛文2年(1662 芭蕉19歳)頃から津藩藤堂良忠に仕え,俳諧に親しむようになりました。
寛文12年(1672)江戸に移り,延宝8年(1680)深川の草庵に転居します。

翌年,門人から贈られた「芭蕉」が俳号の由来となりました。
ちなみに「芭蕉(ばしょう)」とは「バナナ」のことです。

これは江東区芭蕉記念館に生えている「芭蕉」です。
贈られた芭蕉がよく茂ったことから
芭蕉の住んでいた草庵は「芭蕉庵」と呼ばれるようになりました。

しかしこの2年後,芭蕉庵は天和の大火(井原西鶴が「好色五人女」で八百屋のお七の物語のモデルにした火事)で消失してしまいます。

現在,芭蕉庵跡は芭蕉稲荷神社となっています。

安政5年(1858)の「本所深川画図」では,
「松平遠江守」の屋敷の中に「芭蕉庵ノ古跡 庭中二有」と記されています。

これは坂田燦の作品に描かれた芭蕉庵です。
「草の戸も 住替る代ぞ 雛の家」

庵の柱の脇には,当時深川から見えたであろう富士山が描かれています。
舟も当時隅田川を往来していた舟を忠実に再現しているそうです。

さて,焼け出された芭蕉は,門人杉山杉風の別荘である彩茶庵(さいとあん)に移ります。

(彩茶庵跡)
そしていよいよ元禄2年(1689)
弟子の曾良(そら)と共に,この彩茶庵から「おくのほそ道」へ旅立ちます。