自分の窯を開き、試行錯誤を重ねて理想とする焼物を追及する長太郎でしたが、生活のために開窯初期は錦手を施した白薩摩や古薩摩を模した茶碗などを作っていたそうです。
その時期の作品には「清見」「清見山」「清見庵」という銘が入っているものがあります。
その長太郎が作った古薩摩風の茶碗が本物の古薩摩として骨董店に並び、画家黒田清輝の目に留まったことで、長太郎の陶工人生の歯車が大きく動き出したという逸話は有名です。
黒田清輝は長太郎の陶工としての腕を見込み、人まねではない、これぞ長太郎という作品を焼くよう助言しました。
大正9年に黒田清輝によって「長太郎焼」と命名され、大正12年には黒田清輝や谷山南麓出身の日銀理事吉井友兄の後押しにより、東京白木屋(元東急百貨店日本橋店)で長太郎焼展を開催。一躍全国へ名を馳せることとなったのです。