先日、最終日を迎えました「中間冊夫展」。
東京在住の息子さん(中間荘介さん)が、ご家族とご来館くださいました。
ご多忙の中、遠方までありがたい限りです。
荘介氏が鹿児島に滞在中、中間冊夫先生と
中間冊夫夫人で同じく独立の女流画家 佐川敏子先生のお話を
沢山うかがうことができました。
南日本新聞の夕刊にも掲載されましたが、
当館でうかがったお話も少しご紹介させていただきます。
●荘介さんは生まれも育ちも東京でいらっしゃますが、来鹿は何年振りの何度目ですか?
確か、鹿児島は21年ぶりの3度目になると思います。
父の生前、父に黙って自分のルーツである加世田1人で訪れました。
しかし、何のリサーチもせず来てしまったので親戚などに会うこともできませんでした。
その後、三宅美術館の開館イベント(昭和62年)の際来鹿したのが2度目で、
今回はその時以来です。
●荘介さんは設計のお仕事をされていらして、赤坂のTBS社屋も設計されたのですよね。
九州で設計されたものはありますか?
はい、鹿児島の市庁舎東館や福岡NHK、荒尾の市民会館、福岡市庁舎などです。
●中間冊夫先生の奥様は同じ独立美術協会の佐川敏子さんですが、
ご両親共に画家という家庭環境はいかがでしたか?
とにかく「絵描き=貧乏」という印象しかなく、
絵描きにはなりたくないと思っていました。
だから親から絵を習ったことはありませんでしたが、
なぜか子供の頃から絵は上手かったので
デザインにからむ仕事のベースはあったと思います。
小学生の頃からブラックが好きだったので黒い縁を取って描くくせがあり、先生に
「対象物には黒い縁はない。光の反射の違いで稜線が浮かび上がっているんだ。」
と注意をされたことがありました。
その時父は「そんなこという先生の言うことを聞く必要はない」と言い、
自由に見よう見まねで描かせてもらっていました。
●アトリエでの中間先生はどのような様子でしたか?
いつも3〜4点の絵画を同時進行させていました。
少し離れたところからタバコをくゆらせて、キャンバスをじーっと見つめては
気になる箇所に手を加えていました。
アトリエでは傍らにいつも焼酎の一升瓶をおいて、
コップに並々とついで飲んでいましたね。
●空襲で永福町のアトリエが全焼とのことですが、
それまでの作品は焼けてしまたのでしょうか?
内蒙古、新彊、台湾へスケッチ旅行へ行かれた時の作品は
どのような作品だったか覚えていますか?
空襲で焼けてしまったので、私も戦前の作品は1点しか知りません。
それもかなり傷みが激しかったので、武蔵野美術大学に依頼して、
きれいに修復していただきました。
内蒙古、新彊の作品は私も見たことがないので、
どのような作品だったのか見てみたかったですね。
●中間先生は寡黙な方と伺っていますが、家庭でも寡黙な父親でしたか?
寡黙でした。お酒が入っても人柄が変わることは無く、やはり無口でした。
そんな父も母が亡くなった時は、男がここまで泣くのかと思うほど泣いていました。
●中間先生らしいエピソードなどありましたら教えて下さい。
‘ポストの話’という逸話がありまして。
ある日、自宅のポストに誤配送の郵便物が入っていたそうです。
母がタバコを買いに出かける父に「途中の郵便ポストにこれを投函してきて」と
誤配送の郵便物を渡したそうです。
その日の夕方、自宅のポストを覗くと、また同じ誤配送の郵便物が…
父は「ポストに投函してきて」と言われ、
そのまま自宅のポストに投函して出かけたそうです…。
●佐川先生についておうかがいしてもいいですか?
母は体が弱く、ありとあらゆる病気をしました。
あの時代に大学を出て、独立美術協会の女流画家第1号で
父の先輩画家でもありましたが、
家庭では夫を立てていました。いつも和装でした。
●ありがとうございました。
中間冊夫作品(左)荘介氏(中)佐川敏子作品(右)