長太郎焼 4

昭和15年10月、初代有山長太郎が亡くなり、長太郎窯は長男の正夫が二代有山長太郎として継ぐこととなりました。
初代が谷山に窯を開いた明治32年に生まれた正夫は、長太郎窯とともに育ち、
小学生時代は登校前から窯の手伝いをさせられていたそうです。
稼業手伝いのため中学校への進学は叶いませんでしたが、教養を身に付けるために書道の稽古に通うことだけは許されていたそうです。
そのせいでしょうか、二代正夫は焼物と同じくらい書画作品も多く残しています。
(書画では「壺仙(こせん)」という雅号を使用していました。)

外交的な性格だった正夫は高見馬場に開いた長太郎焼の店を任されるようになり、また人望も厚く地元の消防団長、谷山史談会会長、谷山町議会議員(1期)も務めています。
しかしながら、時代は日中戦争、第二次世界大戦など厳しい社会情勢を迎え、窯の存続には相当な苦労をしたようです。軍需品や日用品、米軍のお土産品などを作ってなんとかしのぎ、
正夫の人柄と外交手腕で長太郎焼の技術と名前を今に繋いでくれたのでした。
ここ地元谷山では、今でも「髭の長太郎さん」として親しみを込めて呼ばれています。