長太郎焼 4

昭和15年10月、初代有山長太郎が亡くなり、長太郎窯は長男の正夫が二代有山長太郎として継ぐこととなりました。
初代が谷山に窯を開いた明治32年に生まれた正夫は、長太郎窯とともに育ち、
小学生時代は登校前から窯の手伝いをさせられていたそうです。
稼業手伝いのため中学校への進学は叶いませんでしたが、教養を身に付けるために書道の稽古に通うことだけは許されていたそうです。
そのせいでしょうか、二代正夫は焼物と同じくらい書画作品も多く残しています。
(書画では「壺仙(こせん)」という雅号を使用していました。)

外交的な性格だった正夫は高見馬場に開いた長太郎焼の店を任されるようになり、また人望も厚く地元の消防団長、谷山史談会会長、谷山町議会議員(1期)も務めています。
しかしながら、時代は日中戦争、第二次世界大戦など厳しい社会情勢を迎え、窯の存続には相当な苦労をしたようです。軍需品や日用品、米軍のお土産品などを作ってなんとかしのぎ、
正夫の人柄と外交手腕で長太郎焼の技術と名前を今に繋いでくれたのでした。
ここ地元谷山では、今でも「髭の長太郎さん」として親しみを込めて呼ばれています。

ワークショップ作品 できあがりました

7月26日、27日に開催した、ロクロ体験ワークショップの作品が完成しました。
同じ工程で製作された茶碗ですが、それぞれ個性あふれる作品に仕上がっています。
作品は美術館受付でお渡ししていますので、参加された方はお手数ですが、ご都合の良いときにご来館ください。

長太郎焼 3

大正12年、東京白木屋百貨店での展覧会が好評をえたことで、鹿児島の山形屋でも長太郎焼展覧会を開催するにいたりました。鹿児島でも新薩摩焼として長太郎焼は好評を得、長太郎窯はようやく軌道に乗ることとなります。
大正12年の12月には東宮殿下御成婚のための献上品を鹿児島県から受注。
以後、天皇陛下、各宮家、アメリカ大統領などへの献上品を次々と受注する栄誉にあずかります。
とはいえ、昭和に入ると不穏な社会情勢を迎え、多い時には20人を超す職人や奉公人を抱えていた長太郎窯は、「当時は全員に食べさせ、着せることに必死だった。」と二代長太郎正夫(長太郎長男)の妻オグリは語っています。

さて、初代長太郎の身近な作品といえば、現在の鹿児島市庁舎本館(昭和12年竣工/国指定登録有形文化財)の正面入口にあるレリーフがあります。当時の岩元禧市長(在任期間:昭和8~11年)の依頼で製作されました。岩元氏と長太郎は最期まで友人付き合いが続き、昭和15年の長太郎の葬儀では岩元氏が友人代表をつとめています。

長太郎焼 2

【初代長太郎創業の地】(谷山中央2丁目)

自分の窯を開き、試行錯誤を重ねて理想とする焼物を追及する長太郎でしたが、生活のために開窯初期は錦手を施した白薩摩や古薩摩を模した茶碗などを作っていたそうです。
その時期の作品には「清見」「清見山」「清見庵」という銘が入っているものがあります。
その長太郎が作った古薩摩風の茶碗が本物の古薩摩として骨董店に並び、画家黒田清輝の目に留まったことで、長太郎の陶工人生の歯車が大きく動き出したという逸話は有名です。
黒田清輝は長太郎の陶工としての腕を見込み、人まねではない、これぞ長太郎という作品を焼くよう助言しました。
大正9年に黒田清輝によって「長太郎焼」と命名され、大正12年には黒田清輝や谷山南麓出身の日銀理事吉井友兄の後押しにより、東京白木屋(元東急百貨店日本橋店)で長太郎焼展を開催。一躍全国へ名を馳せることとなったのです。

長太郎焼 1

長太郎焼は、今から120年前の明治32年に有山長太郎が谷山に窯を開いて始まった焼物です。

有山長太郎は、磯御庭焼の絵付師で下荒田町の正健寺で窯を開いていた郡山静遊庵のもとに
陶画工として入門し、そのキャリアは白薩摩の絵付師として始まりました。
京都の粟田焼はじめ各地でも修業を重ね、鹿児島に戻ると磯御庭焼研究所(仙厳窯)で古薩摩の研究や白薩摩の絵付けをしていました。
やがてすでに焼かれている物に絵付けをするだけでは飽き足らず、理想とする黒薩摩を自らの手で創り出したいと独立。会心の土を谷山の山中でみつけ、山の所有者である池田氏の支援を受け、現在の谷山中央2丁目に窯を築き、陶工有山長太郎の作品制作が始まったのです。

本日より後期展示

台風10号が猛威を振るっておりますが、皆さんのお住まいの地域は大丈夫でしょうか。
当館地区は暴風圏を抜けたようですので、本日より予定通り後期展示で開館しております。
とはいえ、まだしばらく強風が続くようですので、ご来館の際はお気をつけていらしてください。

セミも通常運転で元気に鳴いています。

前期展示は本日まで

「開窯120年長太郎焼展」の前期展示は本日が最終日です。
明日14日におよそ半分の作品を展示替えしますので、
現在展示中の作品は本日で見納めのものあります。
15日(木)からは、新たに初展示の貴重な作品も加わりますのでお楽しみに。

8/8(木)有山禮石氏ギャラリートーク

8/8(木)は指宿長太郎焼窯元 有山禮石さんのギャラリートークを行いました。

9歳のころまで谷山で育ったという禮石氏ですが,記憶のある三代の頃を振り返り「材料は自分たちでトラックを運転し山に出向いて持ってきて,燃料は近くの木材や廃材を利用しながら,子供だった自分も含め家族総出で作っており,指宿窯の近隣もわずか20戸あまりしか民家がなかった」と語りました。現代に至る過程で,燃料は薪から石炭,重油,ガス,電気と変化し,窯周辺の民家も500戸近くに増えたとのこと。

また時代にあわせて,職人や作家たちの作陶にかける時間にも変化があり「現代は寝食忘れて家族総出,というわけにはいかないが,その分,継承された技術と新しい時代の化学的知識を活用して,現在の作家として活動を行っている」そうで,「化学的な計算は小数点以下5桁まで」行うそうですが「それでも最後は勘が働かないとうまくいかない」。

そんな中でも,氷裂紋は「北海道の流氷の美しさを表現したかった」と十数年の研究を重ねた禮石氏が生み出した独自の表現ですが「古希を超えた今でも,これに甘んじることなく,違ったアイディアを試したい」と「自分の定数を探す」日々だそうです。

加えて,各時代や,現在の窯元別の「鉄釉」の比較についても「材料や環境,技術も気持ちも,それぞれ全部違うから,自分なりの好みの鉄釉を見つけてみて欲しい」とのことでした。

「開窯120年 長太郎焼展」は,8/14(水・休館)に一部展示替えを行い,9/23(月・祝日)まで開催しております。
時代や作家によって異なるさまざまな鉄釉や,禮石氏の氷裂紋を,ぜひご覧ください。

会津での薩長焼物展

8月5日~18日
福島県会津若松市で開催されている「会津本郷焼、萩焼、薩摩焼の合同展示会」。
当館のロクロ体験ワークショップで講師を務めてくださった有山清麿さんの作品も
出品されています。
出品作は「鎬(しのぎ:焼物の表面をヘラで削って規則的な凹凸をつける技法)」の作品だそうです。
当館で開催中の「開窯開窯120年長太郎焼展」でも清麿さんの「黒薩摩鎬花瓶」と「白釉鎬花瓶」を展示しています。

こちらはミュージアムショップで販売している清麿さんの鎬シリーズです。

身近にある長太郎焼④

本日ご紹介する長太郎焼は、鹿児島市喜入(きいれ)生見(ぬくみ)地区で親しまれている
長太郎焼です。
こちはら生見漁港にある恵比寿神社です。

平成6年、当時の生見漁業協同組合長の依頼で四代長太郎長佑が制作しました。
(その後、生見漁業協同組合は喜入漁業協同組合と合併)

高さは約70㎝ほどあり、焼きでヒビが入るなど、納得のいく恵比寿像が完成するまでに
7体制作したそうです。
平成7年12月2日に恵比寿神社御神体祈願と入魂の儀が執り行われました。
現在は地域のイベントがあるごとに祠の扉を開いて公開されており、
次は9月の十五夜祭りで拝見できるようです。

 

余談ですが、下の写真は、神社の鳥居の脇にある松の木に吊るされた「藁つと」です。
これは、11月亥の日の豊年祭で子供たちが各家庭を回って餅をもらって歩き、
その餅を藁つとに包んで、一年間この松の木に吊るすそうです。
(この藁つとは今でも集落で作っているそうです。)
生見漁港へ行かれたら、松の木にちゃんと藁つとが下がっているか確認してみてくださいね。