9月12日付朝日新聞「この一品」に、ただ今展示中の「二宮金次郎像」を紹介させていただきました。高さ1m弱で、4~5歳児ほどの大きさがあります。
「開窯120年長太郎焼展」は9月23日(月・祝)までです。
掲載承諾番号「19-3933」(朝日新聞に無断の転写は禁じられています)
本日午後4時半から,KYTの「かごピタ」にて,「開窯120年長太郎焼」展の様子を生中継でご紹介いただきました。
このあと午後6時半ごろからも2度目の生中継がありますので,お時間のある方は,ぜひ御覧ください。
昭和27年、二代長太郎正夫は揖宿郡より指宿陶磁器研究所の主任に任命され、
現在の指宿長太郎焼窯元の地に研究所を開き、指宿の原料で焼物の研究を始めます。
昭和32年に弟の流石(さすが)に後任を譲り本窯へ戻り、
昭和35年流石によって指宿陶磁器研究所は指宿長太郎焼窯元と改名。
流石は三代長太郎を襲名します。
現在、流石の四男である有山禮石(れいせき)、
禮石の長男勝英(かつひで)、次男史洋(ふみひろ)に引き継がれています。
昭和48年に正夫は本窯を長佑(四代長太郎)に譲ると、
明宏(正夫長男)と如意山清泉寺長太郎焼窯元を開窯します。
現在は有山明宏(めいこう)と長男の壽彦(としひこ)が清泉寺窯の火を守っています。
ちなみに、大正15年、初代長太郎が地元の要請で霧島神宮のそばに長太郎焼分窯の建設を着手した記録が残っていますが(*1)、開窯までこぎつけたのかどうかは不明です。
霧島神宮には「霧島 長太郎」と刻印のある猿田彦面が奉納されていますが、それが霧島で焼かれたものか、谷山の本窯で焼かれたものかは分かっていません。
また、昭和14年頃、種子島の能野にも分窯建設のため調査に赴き、築窯に適した場所に目星をつけ、いざ建設に取り掛かろうという時に急逝し、その計画はそのまま頓挫してしまったのでした。(*2)
(*1)木藤長(1926)「地理教材研究第九輯」『長太郎焼』東京目黒書店.
(*2)西之表市立図書館(1966)「郷土史資料集(2)」『郷土能野焼』.
昭和15年10月、初代有山長太郎が亡くなり、長太郎窯は長男の正夫が二代有山長太郎として継ぐこととなりました。
初代が谷山に窯を開いた明治32年に生まれた正夫は、長太郎窯とともに育ち、
小学生時代は登校前から窯の手伝いをさせられていたそうです。
稼業手伝いのため中学校への進学は叶いませんでしたが、教養を身に付けるために書道の稽古に通うことだけは許されていたそうです。
そのせいでしょうか、二代正夫は焼物と同じくらい書画作品も多く残しています。
(書画では「壺仙(こせん)」という雅号を使用していました。)
外交的な性格だった正夫は高見馬場に開いた長太郎焼の店を任されるようになり、また人望も厚く地元の消防団長、谷山史談会会長、谷山町議会議員(1期)も務めています。
しかしながら、時代は日中戦争、第二次世界大戦など厳しい社会情勢を迎え、窯の存続には相当な苦労をしたようです。軍需品や日用品、米軍のお土産品などを作ってなんとかしのぎ、
正夫の人柄と外交手腕で長太郎焼の技術と名前を今に繋いでくれたのでした。
ここ地元谷山では、今でも「髭の長太郎さん」として親しみを込めて呼ばれています。
7月26日、27日に開催した、ロクロ体験ワークショップの作品が完成しました。
同じ工程で製作された茶碗ですが、それぞれ個性あふれる作品に仕上がっています。
作品は美術館受付でお渡ししていますので、参加された方はお手数ですが、ご都合の良いときにご来館ください。
自分の窯を開き、試行錯誤を重ねて理想とする焼物を追及する長太郎でしたが、生活のために開窯初期は錦手を施した白薩摩や古薩摩を模した茶碗などを作っていたそうです。
その時期の作品には「清見」「清見山」「清見庵」という銘が入っているものがあります。
その長太郎が作った古薩摩風の茶碗が本物の古薩摩として骨董店に並び、画家黒田清輝の目に留まったことで、長太郎の陶工人生の歯車が大きく動き出したという逸話は有名です。
黒田清輝は長太郎の陶工としての腕を見込み、人まねではない、これぞ長太郎という作品を焼くよう助言しました。
大正9年に黒田清輝によって「長太郎焼」と命名され、大正12年には黒田清輝や谷山南麓出身の日銀理事吉井友兄の後押しにより、東京白木屋(元東急百貨店日本橋店)で長太郎焼展を開催。一躍全国へ名を馳せることとなったのです。
長太郎焼は、今から120年前の明治32年に有山長太郎が谷山に窯を開いて始まった焼物です。
有山長太郎は、磯御庭焼の絵付師で下荒田町の正健寺で窯を開いていた郡山静遊庵のもとに
陶画工として入門し、そのキャリアは白薩摩の絵付師として始まりました。
京都の粟田焼はじめ各地でも修業を重ね、鹿児島に戻ると磯御庭焼研究所(仙厳窯)で古薩摩の研究や白薩摩の絵付けをしていました。
やがてすでに焼かれている物に絵付けをするだけでは飽き足らず、理想とする黒薩摩を自らの手で創り出したいと独立。会心の土を谷山の山中でみつけ、山の所有者である池田氏の支援を受け、現在の谷山中央2丁目に窯を築き、陶工有山長太郎の作品制作が始まったのです。