清泉寺跡 1


(鹿児島市下福元町の草野地区にある清泉寺跡)

清泉寺は南九州市川辺町にある宝福寺の末寺にあたり
慈眼寺と同じく百済の日羅上人が飛鳥時代に開いたといわれています。
一時廃れていた寺は覚卍(かくまん)和尚によって再興され
明治2年の廃仏毀釈で廃寺となりました。

本尊は日羅作と伝えられている阿弥陀磨崖仏(高さ2.7m)で
その左には「南無阿弥陀仏」と刻まれています。

その文字を挟むように小さな阿弥陀磨崖仏があり建長3年(1251)と刻まれています。
紀年銘のある磨崖仏では県下最古のものだそうです。

清泉寺は垂水新城の領主島津大和守久章が正保2年(1645)に
自害した場所として知られており,
現在本堂の跡地には大きな五輪塔の久章の墓が建てられています。


島津久章は寛永16年(1639)十九代光久の命を受け江戸に行き,
紀州家に立ち寄った際の無礼により川辺の宝福寺に5年間幽閉されました。
その後島流しの藩命が下りましたが従わず,この清泉寺に移され上意討ちにあい
自害したといわれています。(久章三十歳)

その後,地元の人たちは「大和さぁ」とよんで
明治の末期までは疱瘡の神様として親しんできたそうです。

これは本尊磨崖仏の奥にある覚卍和尚の墓です。
「当寺開山字堂(覚?)卍和尚墓塔」と刻まれているようです。

覚卍和尚とは変わった名前ですが、
「三国名勝図会」の薩摩国河辺郡の内 川辺 のくだりに名の由来が記されています。
「…開山覚卍字堂禅師、由来記等を按ずるに、禅師は薩州日置郡伊集院邑久木氏の人にて、母懐妊の時胸に卍字の相を現す、因って名とせり…」

この周囲には石塔群と板碑群があり,板碑には五輪塔と月輪が陽刻されています。
五輪塔が二基のものと一基のものがあり,またその形状も様々です。

これは清泉寺旧本堂前石段で,右手には手水鉢があります。

この石段を登っていくと参道に石塔が並んでおり
その石塔群の中から50ほどの竹の子が生えてきていました。

このままだとまずい事になるのでは…と懸念していましたが
1週間後に行くと案の定,竹の子は2mを超え
石塔は押し崩されて参道に散乱していました。

夏場になると草が生い茂り,マムシの散歩道となる清泉寺跡ですが
この時期は福平校区公民館運営審議会の方々がきれいに草祓いをされていて
新緑と水のせせらぎを楽しみながら見学することができました。

参考資料:「谷山市誌」 昭和42年